ほんの一部だけど




高校2年生になって進路希望調査が配られた時、まず俺が考えたのはの進路についてだった。

「私は大学進学だよ?」

そうだろうな、と思った。
が堅実な人間であることはもうわかっていた。
は髪を切りたいらしく、ヘアカタログに夢中になっていたが、俺の簡単な問いに顔を上げた為、はらりと耳にかけた髪が落ちた。

「卓也君は?大学じゃないの?」

俺の部屋で微笑むは、どこか俺の部屋に馴染みきってはいなかった。
モノトーンで揃えた家具に対して、の格好が黄色のワンピースに白のボレロというものだからかもしれない。
タンポポみたいだと思った。

「大学進学とは思ってるけど、志望校はまだ」

バンドで今度演奏する曲のスコアに走らせていたボールペンを置き、座っているソファの背もたれにぐっと寄りかかる。
皮のカバーに皺が増えた。

「私もまだ全然大学なんかわからないよ」

苦笑するはもうヘアカタログを閉じていて、膝の上に丁寧にそれを置いた。

「卓也君と同じ大学ならいいなぁとは思うけどね」

可愛いことを言ってくれる。
思わずの方に体を傾けた。
俺の頭はの肩に綺麗に収まり、細い首筋が視界を埋める。

「俺も、と一緒がいい」

吐息が鎖骨のあたりにかかったのか、は小さく体を捩った。

「動くなよ」

緩慢に動かした俺の腕はいともたやすくの体を捕らえることに成功した。
は特別太っているわけではないが、女性特有の柔らかさがあり、扇情的な気分が沸いたが、俺の理性は蓋をした。
腰を抱く手はそれより上に行くでも下に行くでもなく、少しばかり自分の方に引き寄せただけで余計な動きはしなかった。

「でもバンドは?」
「続ける」

の指が俺の頭を撫でた。
俺の短い髪の何が面白いのかわからないが、の指は何度も俺の髪の間を往復した。

「バンド1本で行こうとか、そこまで夢見てるわけでもねーんだ。奏矢も大学には行くって言ってるしな」

メジャーデビューがほんの少し現実味を帯びてきてはいるが、そこでバンドだけに邁進するほど、俺はロマンチストでも勇者でもない。
地に足が着いていないと不安だ。
もちろん、と同じ学校に通いたいという気持ちもあっての進学だが。

「中学も高校もと一緒じゃなかったし。俺はと隣の席でおしゃべりしたり、昼飯食べたりしたかったから、やっぱりどう考えても大学には行くしかねぇな」
「じゃあ、一緒に大学探そう、卓也君」
「ああ」

大学進学は一種の保険でもあった。
けれどそのときの俺の頭の中ではと待ち合わせをして一緒に大学に行って、隣に座って授業を受けて、昼飯も一緒に食べて、授業が終わったら2人でどこかデートに行くのだと、そんなありきたりな夢を描いていた。
中学高校ではできなかったことをしたかった。
それは俺にとっては大切な夢で、大学進学が保険だけではないのだと言える唯一の理由だったのだ。

「つーか、はセントルイス大学行かなねーの?そっちの方が楽だし、学部にも困らないだろ」
「うーん、無難ではあるんだけどね。まだ他の大学見てもいないのにセントルイスって決めるわけにはいかないよ」

の指先が俺のうなじをなぞった。
それに呼応するように、の腰を抱く両手を組み替える。

「俺が、セン校に行けば話は早かったんだろうな」

あの無駄にお洒落な白ブレザーを着て、奏矢と休み時間にバンドの話でもして、と一緒にいる時間がきっとずっと長くて。
奏矢やの話を聞く限り、少しめんどくさそうな学校ではあるけれど。
そんな風に、セン校に通っていたら、と思う日がないと言えば嘘になる。
過去はあまり振り返らない筈の俺がそんなifを想像するくらい、という存在は俺にとって大きかった。
特別で決定的な出来事という出来事はなかったと思う。
それでもは特別な人になった。
まるでそうなることが当然であるかのように、俺とは惹かれ合った。

「セン校で卓也君と高校生活か。きっと素敵だろうね。でも、今は今でとっても素敵だから、それでいいよ」

そうはにかんだは「私が卓也君の学校に行けば良かったのかもね」と続けた。
俺の学校の制服は男子は学ラン、女子はセーラー服だ。
セーラー服の、いいな、見てみたい。
でも結局は今が全てだ。
学ランの俺とブレザーのが出会って、その2人は今こうして触れ合っている。
なんて素敵なことだろう。
の肩に預けていた頭をどけ、の腹部を捕らえていた腕での肩を静かに引き寄せる。
俺に体を預ける体勢となったは、小さな笑みを浮かべた。
ふとの手元のヘアカタログが目に入る。

「なあ、髪、切るのか?」

黒く清楚な髪に唇を落とすと、は恥じらいから身を引いたが俺が肩を抱いているためあまり動けなかったようだ。
こんな戯れ、もう何回もやっているのに未だに照れるは可愛い。

「切る、かな。ちょっと伸びちゃったし」
「ふーん、勿体無いな」

指先に毛先を絡ませる。
この長い髪が、いつか白いシーツの上に波打って、俺は。
そんな下世話な妄想を慌てて掻き消し、ぎゅっとを抱き締めた。
の顔は俺の胸元に埋まり、俺は頬をの頭に寄せる。

「短い髪は嫌?」

の声色には少し陰があった。
少し眉を寄せて、悩ましげな顔をしているに違いない。

「んなことねぇよ」

の背中に流れる髪を指の間に滑らせる。
この戯れができなくなるのは少し寂しい気もするが、どんなでも俺は好きだ。

「短い髪もも、大学に一緒に通うも、楽しみだ」

の皺の寄った黄色いワンピースに、いつかの春を思う。
ふわりふわりと脳裏を舞うワンピースの裾を追って、といつまでも一緒にいる俺を俺は疑ったことがなかった。
そして大学生になったらもっと一緒にいられると信じていた。










結局、俺とは違う大学に進むことになった。
それはが選んだ大学を俺が選べなかったからで、俺が選んだ大学をが選べなかったためだ。
妥協点ならいくつも存在していたが、妥協を許さなかったのはだった。
俺はいくらでも妥協できたのに、が一切の妥協を許さなかったから、俺はの選んだ大学に行くことはできなかった。
高校3年、雨の降る晩夏の夕方。
は神妙な面持ちで話を切り出した。

「怖くなったの」

雨の音が、俺の描いた夢の世界を削っていくようだった。

「卓也君と一緒の大学に通って、卓也君との時間が多くなって、そしたら私はどうかなってしまいそうなの。卓也君にきっと依存してしまう」

そんなの俺は大歓迎なのに。
そう言ってしまう前に、は泣き出してしまった。
小さな子供のように恐ろしさに瞳を揺らして。

「そんな馬鹿な女になりたくない」

お姉ちゃんみたいには、と続けられた言葉を俺は聞こえなかったフリをして、を抱き締めた。
何度だって抱いたの体をいつもより小さく弱く感じた。

「大丈夫だよ、はそんな馬鹿な女じゃないよ。もしもそうなったら、俺と一緒に克服すればいいだろ」

子供をあやすような口調だった。
はそれに反発することなく、小さな子供であることを受け入れるように、「でも」とどこか拙い言葉を繋げた。

「でも、私は嫌なの。ダメなの」

一緒の大学に行こうねと約束した高2の春から1年が経ち、この晩夏までに起きた出来事が、を臆病にさせてしまった。
が依存の影を濃くしていた頃だったし、それを自己嫌悪するの葛藤を俺は知っていた。
何度だって俺がを支えると伝えても、にはそれは届かなかったし、それでは駄目なのだとも言っていた。
結局は俺に頼ることになってしまうのだと。

「ごめんね、卓也君。ごめんね」

泣き続けるを抱き締め続ける俺の胸元にはの涙が染みていた。
心臓に冷たく降るの涙を、俺は何よりも大切にしたかった。

「俺がどんなに言っても、は俺と違う大学に行くんだな」

腕の中でが小さく頷いた。

「……わかった」

それがの為になるのなら、俺は自分の夢を捨てられた。
きっとが俺に音楽を辞めるよう求めたのなら、俺はそれすら捨てたに違いなかった。










は知らない。
が優しさだと思ってる俺のそれらは、への依存に他ならないということを。
が求めるのなら何にでも俺は答えるし、への愛を満たすためならズルイことだってできるんだ。

「一緒に住もうか、

そう切り出したのが、の大学合格のお祝いを2人でしていた時だったことは俺のズルイところだろう。
がそれを拒否しないように、その日までにの臆病な部分を取り除いたのだって。

「卓也、君」
「一緒の大学は諦めたんだ。いいだろ?」

両手で口元を隠したの潤んでいく瞳に、笑いかける。

の怖がるものはもうないだろ。だから、」

ゆっくりとが顔を伏せ、両手で顔全体を覆った。
依存を怖がったを俺は受け入れたし、これから先たとえ俺に依存したとしても俺がを好きでい続けることは、このときのにはわかっていた。
そして俺がとの時間を欲しがっていることも。

「一緒に暮らそう」

顔を上げて、と囁いての手をどけると、はらはらと涙を流すのどこか穏やかな顔がそこにはあった。

「なあ、愛してるよ、

長い、長い、キスをした。
きっとズルイ俺の愛を、は静かに微笑んで受け入れた。
春の前、最後の雪が外の世界を覆っていた。
君との世界を、手に入れた。


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