世界のすべてが君にやさしくありますように




「丸井、ブン太…」

それが、朝の下駄箱付近で拾った生徒手帳に書かれていた名前だった。



丸井ブン太。
もう一度頭の中で反芻させる。
まるいぶんた。
赤い髪と整った容姿と明るい性格とテニス部で有名な彼か。
全校集会の時に見掛けた、目立った人を思い出す。
同じ三年だし、教室に行くついでに彼のクラスに寄って、この生徒手帳を届けてもいいが、やはりここは堅実に職員室に届けるべきだろう。
そう思って、職員室へ行こうとした時だった。

「ここだと思うんだけどなー」

そんな声が聞こえた。
生徒手帳を手にしたまま、声のする方へ顔を向ければ、赤い髪がふわふわと動いていた。
その赤い髪の彼は、「んー」と唸りながら下駄箱の床をぐるりと見回し、次にジャンプして下駄箱に手を掛けて下駄箱の上を見る。
丸井君だ。
下駄箱から手を離して床に足を着けた彼の横顔を見て、そう確信した。
きっとこれを探しているのだろう。
私は今しがた拾った生徒手帳を見る。
まるい、ぶんた。
閉じた口の中で転がした彼の名前は、慣れない響きで妙な違和感を与える。
しゃべったことないから、慣れないのは当たり前だけど。
そう、しゃべったことない。
丸井君は自分の下駄箱の中を覗いている。
この生徒手帳を、どうぞと言って渡せばいいのに、どうにも緊張して言い出せずにいる。
心臓はバクバクだし、喉も乾いてきた。
一度もしゃべったことのない男子に話し掛けるというのは、私には苦行なのだ。
もうここは丸井君を見なかったことにして職員室に届けてしまっていいのではないだろうか。
そんな考えさえ浮かんでくる。
というか、そうしよう。
彼に話し掛けるより全然良いに決まっている。
きっと丸井君も探し回って見つからなかったら職員室に行くだろうし。
いや、その前に朝のSHRで丸井君の担任が手渡す方が先かもしれない。
とにかく、ここで私が緊張して丸井君に話し掛けなくても、どうせ丸井君の手にはこの生徒手帳は戻るのだ。
よし、職員室に行こう。
と、私が決意したところだった。

「あれ?」

丸井君の大きな目が私を捉えた。
びくっと心臓が跳ねる。
そして、拾った生徒手帳を握る手がぎゅっと強まった。

「あ、これ、拾ったんだけど」

気付けば、掠れるような声でそんなことを言っていた。
明らかに緊張している私。
そんな私の差し出す生徒手帳を丸井君は一瞥して、ニッと口角を上げた。

「拾ってくれたのか、サンキュー」

この人は人見知りしないんだな、と思った。
私は「どういたしまして」と蚊の鳴くような声で呟いて、生徒手帳を手渡す。
丸井君は「ここに落ちてた?」と聞きながら生徒手帳を受け取った。

「うん、丁度、そこらへん」

拾った所を指差すと、彼はそちらに目を向けて「やっぱりなー」と苦笑する。
そして生徒手帳を右ポケットに入れた彼は、そのままポケットから出した右手を握り拳にして私の手元に差し出した。

「これ、お礼の飴な」

私が手のひらを丸井君の拳の下に広げると、丸井君の右手は開かれて、ピンク色の球体を包む透明の袋がぽろりと零れた。
手のひらの真ん中に、飴が落ちてきた。

「んじゃ、ありがとな」

私がぼぅっと飴玉を眺めているとそれだけ言って、丸井君は下駄箱から立ち去った。
…学校のアイドルである丸井ブン太君から飴を貰ってしまった。
それはなんだかとても現実離れしていて、違う世界に踏み入れたような気さえした。
だって、丸井ブン太君は私と何の関わりもなくて、一生口をきくことない、本当に無関係な人物であったはずだから。
でも手のひらの飴が、私と丸井ブン太君の関わりを示している。
私は丸井ブン太君と1度だけ関わった。
それだけで、私の学校生活が、少し変わった気がした。










丸井君の生徒手帳を拾った日から、私の制服のポケットにはずっとピンク色の飴玉が入っている。
どうにも食べるタイミングがわからずにいるのだ。
もう、あの日から3週間が経過しようとしているのに。

、次移動だよ?早くしなー」

ポケットの感覚に気を取られていると、友達からお呼びがかかった。
そういえば次は理科室だったか、と教科書、ノート、下敷き、筆箱を取り友達の隣に駆け寄る。

「ごめん、移動だって忘れてた」
「周り殆どいなくなってるのにどうして気付かない」
「ぼーっとしてた」
「ぼーっとすんな」

友達に頭を小突かれながら廊下を歩く。
すると廊下の向こう側から、ある人が歩いてくるのが見えた。
その人だけがこの廊下の中で鮮やかに色付いている。
丸井ブン太君。
とても華やかな彼はどこにいても目立つのだ。
廊下の奥でぎゃーぎゃー騒ぐ男子とか、教室の入り口で大口開けて笑ってる女子とか、そんなのが全て掠れて見えるくらい。
私は彼を目の端に入れながらも、丸井君をただの背景のように気にしないようにして、友達とくだらない話を続ける。
丸井君と、すれ違った。

「あ」

肩に衝撃が走る。
でもそれは丸井君も同じようだった。
どうも廊下の奥で騒いでいた男子がこちらに向かって走ってきて、丸井君にぶつかったようだ。
そしてそのまま丸井君は私にぶつかった。
反射的に、振り返った私。

「あ、わりぃ」

丸井君と目が合った。
少し驚いた様子で、ちょっと焦って、彼は謝った。
私も「あ、すみません」と咄嗟に軽く頭を下げる。
それだけだった。
丸井君は「いや」と言っただけで、そのまま廊下を私とは逆方向に進む。
私はその背中を見送ることなく、すぐに友達と一緒に理科室に向かった。
私と丸井君は、関わりがない。
それは当然であったはずなのに、少し寂しく感じた。
きっと、ポケットの飴のせいで、寂しかった。











その次の日だった。

「なあ、これ、違う?」

丸井君が私のリップクリームを届けてくれたのは。
それもわざわざ教室まで。
ただのリップクリームを。

「え」
「昨日落とさなかったか?廊下で」

私の席の前に立ってる丸井君の手にあるリップクリームを観察する。
母親が通販で化粧品を買った時におまけでついてきたリップクリームを私は使っていたのだが、間違いなくそれだった。
昨晩リップクリームがないことに気付き、もう見つからないだろうと諦めていたので、それを丸井君が持っていることに何より驚いた。

「確かに、私のだけど…」
「ああ、やっぱり」

私の答えを聞いて、丸井君は安心したように笑ってリップクリームを私の机に置いた。
しかしながら、クラスメイトの視線が痛い。
それはそうだろう。
私に丸井君が用事だなんて、ありえないことなのだから。

「昨日廊下でぶつかったじゃん?あの時、お前の顔になんか見覚えあってさ、そんで生徒手帳拾ってくれた奴かなーっかなんとなく目星ついて振り返ったらもうお前いなくてさ。そんで足に何かぶつかって、下見たらこれがあったってわけ」

さらっと、リップクリームを拾った経緯を説明する丸井君に私は何も言えなかった。
生徒手帳のこと、覚えてたんだっていうのと、リップクリームをわざわざ届けに来てくれたことがちょっと信じられなくて、茫然としてしまった。
丸井君はそんな私にお構いなく、しゃべり続ける。

「まあ拾ったはいいけど、その後俺ポケットに突っこんだまま忘れちってさ、そんで今日の朝気付いて、昨日移動であの時間空だった教室どこだったけなーって思い出して、ここ来たらビンゴってわけ。顔は、ちょっと覚えてなかったんだけど、っぽい奴、つまりお前に声かけたらまたしてもビンゴだったぜぃ。天才的だろぃ?」

ふふん、と丸井君は、嫌味を感じさせない自慢げな笑みを浮かべた。
しかし「天才的だろぃ?」と言われてはどう返したらいいのかわからない。
彼と多少の付き合いがあったら、どのような反応をしたらいいのかわかっただろうけど、残念ながら、私と丸井君の間に交流は今まで皆無だった。
よって私は「そう、だね。わざわざありがとう」と歯切れ悪く言うしかなかった。
私のその態度は、きっと丸井君にとっては不快でしかないだろう。
だって丸井君は親しみやすく、明るく話し掛けてくれているのに、私はと言うと、大して面白い受け答えができるわけでもないのだから。
でも丸井君は、眉を顰めることもなく、ニカッと笑った。

「おう。じゃーな」

イイ人だ、と思った。
知り合いらしい私のクラスの男子と軽く一言二言交わしてから教室から出て行く丸井君を見ながら、イイ人だと思った。
リップクリームをわざわざ届けてくれたこともそうだし、私なんかを覚えてくれていたことも、嫌な顔ひとつせずに私に話し掛けてくれたことも、そして私に笑いかけてくれたこと。
それで私は丸井君はイイ人だと思った。
友達が「丸井君に拾ってもらえていいなー」なんて言っているのを適当に受け流して軽く笑いながら、私は机の上のリップクリームをポケットに突っ込んだ。
ポケットの中に入れると同時に、指先にカサと乾いたものが当たった。
飴玉の袋だった。
ポケットに二つ、丸井君との関わりが入っている。
それが少し、嬉しかった。










「あれ?お前、」
「あ」

次に丸井君と関わったのは、リップクリームを届けてもらった翌々日だった。
こんな頻度で丸井君と関わるなんて、一体私の人生に何が起こっているのかと本気で思った。
誰かが仕組んでいるとしか思えない。
だって、今までは本当に丸井君と私の生活なんてかすりもしなかったんだ。
それがなんで社会準備室で二人きりだなんてシチュエーションになるのかがわからない。

「何か取って来るように言われたのか?」
「う、うん」
「へー、俺も。俺は地図。お前は?」
「資料集…」
「ああ、あの分厚いやつな」
「多分、それ」

会話終了。
社会準備室の入り口に立っていた丸井君はやはり会話を続けられない私に嫌気がしているという顔はせずに、1番奥の窓際まで行く。
私は台座に立って棚を漁っていたので、それを続行。
乱雑に本が積まれているので、整理しながらでないと探している資料集は手に入りそうにない。
丸井君はすぐに地図を持って立ち去るかと思ったけど、丸井君の探している地図もかなり奥にあるらしく、苦戦しているようだ。
ガタガタと音がする。
丸井君が荷物をどけている音だろう。
私は丸井君の方を絶対に見ないように、棚の中の本を出しては入れる。
何と言うか、気まずい。

「そうだ。なあ、ちっこいの」

…ちっこいの、っていうは私だろうか。
いや、私だろう。
確かに小柄ではあるが、いきなりその呼び方はどうかと思う。
丸井君はイイ人ではあるけど、気遣いは上手いというわけではないのだろう。
ただ、笑顔が魅力的で、誰にでも分け隔てなく接して、それでいてストレートなイイ人なのだ。
私はちっこい発言に戸惑いながらも丸井君の方に顔を向ける。
丸井君はちっこい発言には何も思っていないらしく、普通に、本当に普通に、

「名前、なんて言うんだ?俺、丸井ブン太」

と言った。
丸井君の名前を知らない人は、この学校ではモグリだろう。
そうは思いつつも、折角丸井君が自己紹介したのだ。
水を差すような真似はしない。
しかし、丸井君が私の名を尋ねるとはどういうことか。
丸井君には、何のメリットもない。

「なあ、名前」

三回瞬きしたところで、丸井君に催促された。
私はびくっとしつつ、反射のレベルで咄嗟に「です」と答えていた。

か。生徒手帳にリップクリーム、そんで今これだ。これも何かの縁だろぃ。また何かあったらしくよろ」
「あ、う、うん」

って、これから先何があるのだと言うのだ。
私はもうこの三つでお腹いっぱいなのだ。
よく知りもしない人、それも学校の人気者と関わったというのは、私の人生においてかなりの大事件だ。
ああ、でも。
丸井君にとっては何でもないことなのだろう。

「つーか社会準備室散らかり過ぎだろぃ」

丸井君はダンボールをどけながらそう言った。
私に話し掛けたのか、独り言なのかわからなかったから、私は特に返事はせずに棚に向かった。
もしも独り言で私が返事をしたら、自意識過剰みたいで嫌だから。
その数秒後だった。
私はお目当ての資料集を見つけた。
これでこの緊張感で溢れた社会準備室とはおさらばだ。
丸井君という、私の生活においては異彩を放つしかない強烈な存在とも。
私が台座を降りた気配を感じ取ったのか、丸井君は何かを引っ張る手を止めてこちらを見た。
私も丁度丸井君に何か声を掛けるべきかと視線を彷徨わせていた為、自然と丸井君と目が合った。

「資料集見つかったのか?」
「うん」

ぎこちなく頷くと、丸井君はすぐに視線を戻して、「そりゃ」と呟き、あるものを引っこ抜いた。
それは筒のようなもので、丸井君が探していた地図だった。
だからと言って、一緒に社会準備室を出て、一緒に廊下を歩くなど私にできるはずがなく、

「じゃあ、私行くね」

と踵を返すしかなかった。
が、しかし。

「あ、

丸井君の声に振り返る。
すると丸井君の手から大きな筒が離れた。
バン、という音を立てて、筒の先が私の方に向くように床に倒れる。
私はそのいきなりのことに、一瞬目を瞑り、一歩退いてしまった。
丸井君は、特に反応がなかった。
そのまま丸井君の方を見たが、丸井君に筒を拾おうという気配はない。
よくわからず、筒を眺める私。
丸井君も筒を静かに見つめていた。
え、どうしろと?

「……」
「……」

よく、わからないがこのままは何だかよくない気がして、私は資料集を台座の上に置いてしゃがんだ。
手は筒を掴む。
そのまま筒を持って立ち上がり、丸井君の方へ傾けた。
すると丸井君は、ニーと笑ったではないか。

「さーんきゅ」

軽い調子で私から筒を受け取った丸井君は、筒を自分の体に立てかけて、自由になった右手をポケットに入れた。
そして、ポケットから出てくる、握り拳。

「拾ってくれてありがとな」

クククと面白そうに笑いながら、丸井君の握り拳が私の手元に伸びた。
私は、丸井君の握り拳の下で手のひらを広げる。
丸井君が握り拳を広げると、落ちてきたのはオレンジ色の飴玉の入った袋。

「飴、やるよ」

丸井君の、どこか勝気な笑みに、トクン、と心臓が鳴った。

「ありが、とう」

私は飴玉を握る。

「拾ってもらったのは俺だろぃ?はお礼言わなくていいんだよ」
「あ、ああ、そっか」

ピンクの飴玉を貰った時のことを思い出す。
思い出しながら、どうも照れてしまう。
私は動揺を隠そうと飴玉をポケットに入れた。
しかし、


コツン


手をポケットから抜き出すと同時に、ポケットからあるものが落ちた。
社会準備室の床に、窓からの光を受けてキラリと光るそれ。

ピンクの飴玉だった。

「あ」

丸井君がそう呟くのと、私が慌ててそれを拾うのは同じタイミングだった。

「まだ食ってなかったのかよ」

丸井君は笑いながらそう言う。
とてつもなく恥ずかしかった。
私は恥ずかしさの余り、俯くしかなかった。

「その飴美味いから、食っちゃえよ」

丸井君の声は、未だに飴玉を持っている私を馬鹿にするでもない、軽やかなものだった。
ここで馬鹿にしたように言わないのが、丸井君のイイ所なのだろう。
私は俯いたまま、「うん」と小さく頷いた。

「よし」

丸井君は私の返答に満足したのか、うんうんと何回か一人で頷き、「もう教室戻らないとやべーな」と地図の筒を抱え直した。

「ほら、も行くだろぃ?」

顔を上げることなく資料集を持った私は、その言葉につい顔を上げてしまった。

「行こうぜ」

丸井君は、私の驚いた顔に不思議そうな表情を見せつつも、顎で社会準備室の外を指す。
しかし、丸井君と一緒に廊下を歩くということはとても勇気がいることだ。
了承することはできない。
私が「え、えと、」と立ち往生していると、丸井君は「あー、わり」となぜか謝った。

「そうだよな。よく知りもしない奴と一緒には歩きたくねーな」

歩きたくないのではなく、歩けないのだが、精神的に。
しかしそんなこと言えるはずもなく、私は小さく「すみません」と呟くしかできなかった。
自分でも、何に対して謝ってるのかわからなかった。
丸井君は私と一緒に歩きたいというわけではなく、ただ一緒に社会準備室にいて同じタイミングで出るというだけなのに。
謝った自分は、何か自惚れているようで、すごく恥ずかしくなった。
けれど丸井君は私の謝罪にそういったことを感じた様子はなく「何謝ってるんだよ」と笑うだけだった。

「んじゃ、先行くな、俺」

スッ、と丸井君が私の横をすり抜ける。
私はつい、目でその赤い髪を追った。
そのまま、赤い髪は社会準備室から消えるのだと思った。
思った、が、しかし。
丸井君の赤い髪が揺れて、社会準備室の入り口で止まる。
丸井君は背中越しに振り返って、私を、瞳に映した。



「また今度、飴やるよ」



そして最後に一回笑顔を見せて、丸井君は今度こそ社会準備室から立ち去った。
ドサッ。
私は資料集を床に落としていた。
両手で口と鼻を覆う。
どうしよう。
顔が熱い。
心拍が早い。
どうしよう。
本格的に、丸井君に惚れてしまった。
どうしよう。
頑張ったって、無意味なはずだから惚れないようにしてたはずなのに。
丸井君が私なんかを好きになるはずがないから、好きになったって悲しいだけなはずなのに。
なのに、丸井君が、とてもかっこいいから、惚れてしまった。
私はそっと、ポケットの中を確かめるように、服の上から触れた。
ピンクの飴玉と、リップクリームと、オレンジの飴玉。
このポケットがいっぱいになったら、脈ありなのかな。
なんてくだらないことを考える。
ああ、でも、どうしよう。
暫くこの飴玉は食べれそうにない。



それから、丸井君が会う度に飴玉をくれるようになって、「」と呼んでくれるようになって、そして。


1周年と5万打リクエスト企画より。

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