あなたの懊悩に触れる




『ははっ、なんやそれ』

財前君の笑顔を見たのは、それが初めてだった。
クラス替えしたばかりの春先に、財前君は笑ったのだ。
一緒に日直になったあの日、私が日誌の隅っこに描いた担任の似顔絵を見て、財前君は、笑ってくれた。
あの財前君が、本当にくだらない絵で、笑った。
私はその時、眩暈を起こす程の衝撃を受け、ひたすら感動していた。
財前君の笑顔があまりにも美しくて美しくて涙が流れそうでもあった。
なんて彼は、綺麗に笑うのだろう。










「財前君の名前、かっこいいよね」

財前君の笑顔を目の当たりにして早2ヶ月。
嬉しいことに財前君の前の席を私はゲットしていた。
隙あらば財前君に話し掛ける日々が続いて半月。

「ふーん。それが何なん?」

財前君は冷めている。

「特に意味はないんだけど、光って名前、かっこいいなぁって思って、それで、」
「それだけ?なら寝かせてもらてええ?眠いんで」
「う、うん。おやすみ?」
「おやすみ」

財前君は小さく欠伸をしてすぐに机に突っ伏した。
あの時以来、財前君の笑顔を私は見たことがない。
集合写真でクラスの皆が笑顔でピースしていても財前君だけは無表情だったりする。
勿体無いと心の底から思う。
折角綺麗に笑えるのに、その美しさを出し惜しみする財前君に私は歯痒さを感じていたりした。
「良いモノ」は評価されるべきだと思うし、それが人を感動させるものなら尚の事。
だから私は財前君に何度も何度も話し掛ける。
ただ財前君の笑顔を引き出したい一心で。
その思いのせいか、私の元々の気質のせいか、私は内面から明るくなり、気付けば明るい笑顔を浮かべて財前君の席へと振り向いている。
財前君はクールな人だから、そんな明るい私をうざがっているかもしれない。
それでも私はテンションが上がるのを抑える気もなく、財前君に話し掛けるのを止める気もない。
押して駄目なら引いてみろ、なんて言葉、私は知らない。
だって、しょうがないじゃない。
私は財前君にもっともっと近付きたいんだもの。
その思いは、止められない。










「このプリント、後ろに回してー」

英語の時間、教師がプリントを配る。
授業というものは恐らく万国共通でプリントを後ろに回す作業が発生していることだろう。
私はその教師の手間省き作業が大好きである。
だって、財前君の方へ振り向く口実ができるじゃない。
そして前の席から回ってきたプリントをせっせと受け取り、振り向く。
財前君は案の定机に突っ伏したままだった。

「財前君、プリント」

声を掛ければ財前君は何も言わず、枕にしていた腕を頭の下から引き出し、何かを催促するように手を差し出す。
私がその手にプリントを乗せるとぐしゃりと潰すようにプリントを握り、そのまま机の中にそれを突っ込んだ。
そして腕は枕へと役割を変える。
顔を上げることのない財前君に少しだけ残念な気持ちになりつつも、何だか今のプリントの渡し方が阿吽の呼吸みたいで喜ばしくもあった。
特に何を語るわけでもなく、黙って相手の望むことをするとか、なんか夫婦みたいだなぁ、なんて思っちゃたりして、そんなことを思った自分が恥ずかしくてすぐに前に向き直ったり。
でもやっぱり、顔を上げて笑って欲しいなぁ。
とか思っていたら、ツン、と後ろの首回りを引っ張られた。
ニュアンス的には引っ張られたというより掴まれたといった感じだ。
後ろの首回りを引っ張れるのなんて、後ろの席の人間じゃないとできない。
もしも後ろの席からでなかったら、掴んだ奴は人間ではないだろう。
私は上がる心拍数を意識しながら振り返った。
後ろの席では財前君はまだ上半身を起こしていなかった為、その眠そうな半目で私を見上げていた。
不機嫌そうに見えなくもない。

「なあ、・・・名前」

至ってだるそうに開かれた口から零れたのは、それだけだった。

「え?」

私はわけがわからず動揺する。
混乱と言ってもいい。
いや、天パった。

「名前、名前?え、プリントの?あ、今は英語の時間で、って、え?」

財前君はそんな私を完全に睨んでいた。
寝ぼけている半目ではないのだ。
面倒臭い奴だなと呆れていて、何言ってんだコイツと訝っている。
ああああああ。
私の株落ちたよ、絶対。

「そうやなくて、自分の名前、何て言うって聞いてるんやけど」

財前君は小さく溜息を吐いて頭をガシガシ掻きながら上半身をやっと机から離した。
私はあのまま財前君が面倒臭がって寝直すのではと心配になっていたから、まだ私と話してくれることに心が弾んだ。

!」

心と一緒に声も弾んで、私はどこぞの幼児かと思われるような安直かつ簡潔に名前を告げた。
というか、同じクラスになって大分経つのに名前知られてなかったのか(苗字はいくらなんでも知ってるだろうけど)。
若干降下を始めたテンションだったが、財前君が次に放った一言で私のテンションは再び急上昇することになる。


・・・。自分もええ名前しとるやん。光よりも、ええ名前」


財前君はそう言うと欠伸だけしてまたしても机に突っ伏した。
私は、完全なる硬直状態だ。
財前君が私の名前を呼んだこと、先程の会話を続けてくれたことに驚き動転し慌て信じられない気持ちだった。
頭がチカチカする。
目がショボショボする。
唇がカサカサする。
そして硬直の解けた私の体は、全体的に小さく震えた。
表面から内面まで、私の全てが震えたのである。
血も骨も臓器も神経も、何もかもが震えた。
声帯もまた。

「光の方が、いい名前、だよ!」

震えた声帯、震えた唇。
そこから零れた妙な訴え。
でも心の底から思ったことだった。
光の方が、いい名前だ。
財前君は私の言葉に特に反応を返すこともなく机に突っ伏したままだった。
それでも私は悲しくならなかった。
不細工に顔全体が歪み、笑みを必死に抑えようとして失敗した感じな変な表情になってるのを自覚しつつ私は前に向き直った。
やばい。
何がどうやばいのかよくわかっていないけど、とにかくやばいのだ。
やばい、やばい。
財前君に名前を呼ばれた、やばい。
駄目だ。
涙が、出そうだ。
やばいよ、こんなの。
私の名前を不意打ちで呼ぶなんて、やばいよ。
私の名前を誉めるなんて、やばいよ。
授業中に涙流すなんて、やばいよ。
何もかもが、やばい。
・・・そして授業終了間際、不意に「やばい」が「嬉しい」であったことに気付く。
財前君と私が関わり合ったことが、とても嬉しい。










って、財前君のことホンマ好きやね」
「応援しとるでー?」

昼休み、友人達の放った言葉に私の思考は停止した。

「え、何それ?」

辛うじて脳味噌を再運転して出た言葉はそれだった。
友人は「別に隠さなくてもええで、バレバレやから」と笑う。
意味がわからなかった。

「好き?私が、財前君を好きなの?」
「え、ちゃうの?」

友人はポカンとした。
私もポカンとしている。
私は彼女達に対して「何言ってるんだろう」と思っていて、逆もまた然りだったりするのだろう。
彼女達は何か宇宙人でも見たかのように私を見る。

「あんだけ積極的にアッタクしといて、今更とぼけるん?」

ははは、とわざとらしく笑う友人達。
彼女達を遠くに感じた。
ずっと遠くでその笑い声は響く。
遠くにいってしまった彼女達が知らない人間のように思える。
・・・初めてだ。
初めて友達をこんなに遠くに感じた。
初めて友達がこんなに別人に思えた。
現実味を帯びていない光景が普段の日常であることなんて、初めてだ。



好き?



その言葉が私には大き過ぎて、掴みきれなかった。
財前君に話し掛けるのは好き。
財前君が言葉を返してくれるのは好き。
財前君が顔を上げるのは好き。
財前君のどこかだるそうな声は好き。
財前君のゆっくりした瞬きは好き。
財前君の笑顔は、大好き。
財前君が、好き。
そう、それだ。
財前君のことを好きだと認識したことは今まで一度もなかった。
だから私にとってそれは未知のモノで、友人がわからなくなったのだ。
そうして私は昼休みに遂に気付いたのである。

「私、財前君のこと好きなんだぁ」

ということに。
友人は「今更ー?」と笑う。
わざとらしくない笑い声。
近くで響く笑い声。
現実味を帯びていく現実に安心感を抱く。


そっか、私、財前君のこと好きだったんだ。


もう既に好きというモノは私の手の内にすっぽり収まっていた。
財前君の笑顔で私は財前君を―――。
財前君のことが好きだから、私は―――。





















「財前君、これあげる」
「何?」
「善哉」
「・・・ええの?」
「うん」
「おおきに」

財前君への好意に気付いてからというもの、私は前にも増して積極的になっていた。
財前君に好きな音楽は何かと聞き、好きなテレビ番組は何かと聞き、好きな食べ物は何かと聞く。
とにかくいろんなことを聞いた。
そして財前君の好きな音楽を聴き、財前君の好きなテレビを見て、財前君の好きな食べ物を買った。
その度に財前君に感想を述べる。
そうすると以前より会話らしい会話ができるようになった。
平たく言えば、仲良くなった。
財前君に恋する身としては嬉しい限りだ。
つい先日、「自分と話すの、割と楽しいな」と言われて泣きそうになったのは記憶に新しい。

「・・・そういえば、」

財前君が黒板の日付を見て呟いた。

「明日って俺ら日直やん」

実は3週間前からそれをチェックしていた私にとって、それがどんなに楽しみなものかは想像に難くないだろう。
けれど財前君は「部活行くの遅うなるし、面倒臭い」と溜息を吐いていた。
財前君のその気持ちもわかるけど、私はやっぱり明日の日直が楽しみだから、何とも言えない気分である。
楽しみにしていてごめんなさい、とか思っていたら、「でも、」と財前君は続けた。

「自分と一緒ならまだええわ」

実に都合よくできている私のボジティブシンキングな頭はその言葉を「私と一緒で良かった」というふうに捉えていた。
そのおかげで私は有頂天のまま1日を過ごした。
友人はやけにご機嫌な私を見て「気持ち悪い」と笑った。
ちなみに私は財前君の言葉に、

「私、財前君と一緒の日直なら面倒臭くないなぁ」

と、だらしなく笑った。
財前君は眉ひとつ動かさずに「へぇ、良かったやないか」とつまらなそうに呟き、欠伸をした。
やっぱり財前君は冷めている。





















「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・俺、こっち終わった」
「ごめん、まだ・・・」
「いい。待つし」
「ご、ごめん」
「いいって」

場面は打って変わって翌日(つまり私と財前君が日直の日)の放課後、教室。
財前君は花瓶の水を入れ替え、黒板消しを綺麗にし、黒板の日付と日直欄を書き換え終わっていた。
私はと言うと、日誌を書いていた。
財前君が3つの仕事、事細かに数えると実に5つの仕事をこなしたというのに、私は日誌のひとつも書き終わっていなかったのだ。
財前君は何だかムスッとしているようだし、呆れているようだし、ウザがっているようだった。
勿論、私に対して。
私は自分の不甲斐無さに泣きたくなった。
まだこの仕事の遅さが財前君と少しでも長くいたが為の仕様だったとしたらこんなに涙腺が崩れそうにはならなかったことだろう。
けれど私の仕事が遅いのは紛れもなく、私が無能なせいなのだ。
いざとなると何も書くことが見当たらなくなって、日誌を書く手が止まってしまった。
そんな私の馬鹿のせいで財前君はテニス部に行けなくて。
・・・やだ。
財前君が嫌な気持ちになっているのがやだ。
財前君に嫌われるのがやだ。
やだ、やだよ。
そう思えば思うほど、涙腺がガラガラと崩れていき、もうすぐ決壊だ。
財前君の前で泣くのは、なぜかすごくいやでいやでたまらなくて、泣くな泣くな泣くなと自分に必死に言い聞かせる。
けれど唱えれば唱えるほど、泣きそうになっていく。

と、その時。

目元に熱が走った。
涙、ではない。
指、だった。
人の指。
財前君の指。
指が私の目の下を軽く押さえていた。
いつの間に、こんな近くに。
私の、目の前に。

「怒ってへんから、さっさと書けばええんちゃう?」

いつもと同じ表情、同じ口調、同じ声色、同じ視線。
でも、どうしてかその財前君はいつもより優しい匂いがした気がする。
決壊する涙腺を無理矢理食い止めているその指の体温に、また涙が零れそうだった。
けれど慌てて財前君の指から顔を離し、ゴシゴシと目元を擦ったので涙は出ずに済んだ。

「テキトーに書いて、さっさと終わらせたら、それでええよ。頑張れ」

私の目元から強制的に引き剥がされた指は、指と指とで擦り合わされていたかと思えば、すぐに安定位置(ズボンのポケット)へ戻った。

「うん、頑張る」

泣きそうだった私の顔には、笑みが浮かんでいた。
そして、

「今回は、変な似顔絵禁止やからな」

固まった。

「え」
「前、一緒に日直やった時変な似顔絵描いて笑わせたやろ。今日は禁止」
「う、うん」

正直、驚いた。
財前君があの日のことを覚えていてくれたことに。
そしてまたしても嬉しさが込み上げる。
私は財前君に嬉しくさせてもらってばかりだ。
勝手に私が嬉しがってるだけなのだが。

「でも、勿体無いよ」
「何が?」

ああ、つい声に出してしまった。
でもいいや。
折角だから、ずっと言いたかったことを言ってしまおう。
ノリと勢いとテンションに身を任せないと、やってられない。



「財前君の笑顔、綺麗だから。もっと笑えばいいのに」



とても、とても珍しいことに、財前君がポカンとした。
財前君が口を半開きにして瞬きを数回繰り返す様なんて、もう見られないかもしれない。
私はそんな珍しい財前君を可愛いと思った。
パチクリする瞳なんて、ほら、すごく可愛い。
・・・勿体無い。
綺麗な笑顔も可愛い素顔も、もっともっと出せばいいのに。
勿体無い。

「・・・俺にもっと笑えって?」

やっと正気を取り戻したらしい財前君は、先程よりも随分冷たい声色だった。
けれどそれはいつもの財前君の声色でもあった。
先程の財前君は、いつもより随分優しかったのだ。
それに今、気付いた。

「だって、綺麗だし。私はもっと財前君の笑顔が見たいです」

財前君は「ふーん」と軽く相槌を打つとそっぽを向いてしまった。
失敗したかな、とは思いつつもあまり後悔はなく、寧ろ「やっと言えた」という達成感すらあった。
そして私が顔を下げ、日誌を書こうと意気込んだ時だった。

「なら、笑ってあげよか?」

頭上から、そんな言葉が降ってきた。

「本当!?」
「嘘」

がばっと勢いよく顔を上げた私はお約束な罠に見事に嵌まった。
財前君って、実はすごいお茶目だよね。

「そもそも楽しいこととか面白いことがないのに、なんで笑わないといかんの?というか笑えるわけないやろ」

馬鹿かお前、とでも言いたそうな視線が降り掛かる。
自分が馬鹿なことなど、未だに日誌を終わらせられていない時点でもうわかりきっていることだから傷付きはしない。

「私は普通に過ごしてたら普通に笑えるけどなぁ」
「それは自分が能天気なだけ」
「否定できません・・・」

そこで財前君が「日誌」と一言呟いたので私は慌ててシャーペンを握り直し、日誌に向かう。
財前君はそれと同時に私から窓の向こう側へと視線を向けた。
日誌は財前君の言った通り、テキトーでいいや。
さっさっ、と走り書きのような汚い字で簡潔に授業の内容などを書き込んでいく。

「・・・と一緒にいたら、笑うこと増えるかもしれん」

それは唐突だった。
私は日誌に集中していたし、財前君はそれまで黙っていたし、もうその話題は終わったようなものだったし。
兎にも角にも唐突で、私は動きを止めることもできず、その言葉が発せられた数秒後までシャーペンを走らせていた。

「え、え?」

日誌が丁度書き終わったところでシャーペンが手の中から転がり落ちた。
目を白黒させて財前君を見やると、まるで何も言っていないかのように、平常な様子を保っていた。
私ではなく窓の外に目をやり、手はポケットに突っ込まれている。

「日誌終わったん?」

私が顔を上げたことに反応してか、財前君は私の方へ視線を移した。
本当に大したことなど起きていないかのような反応だ。

「なら、これで日直は終いやな。日誌、職員室に届けといて。俺、部活行くから」

財前君は私の目の前から私の後ろへと移動した。
私の後ろの席、すなわち財前君の席から机の中を漁っている音が聞こえる。
私はと言うと、机の上を転がって、机の縁ギリギリで止まったシャーペンに目をくれることなく呆然としていた。



『・・・と一緒にいたら、笑うこと増えるかもしれん』




一緒に。
笑う。
増える。

ああ、もうやばいって。
だって私は財前君が好きで、財前君に恋してて、財前君に片思いしてて、それで、あんな言葉投げかけられるなんて、もう嬉し泣きしていいんじゃない?

「それじゃ、また」

気付けば財前君はテニスバッグを肩に掛け、私の脇を通り過ぎて行った。
私は財前君の背中を見て、何か言わなきゃいけない気がした。
ガタン、と椅子が倒れそうなくらいの勢いで立ち上がる。
財前君は少し驚いたような表情で振り返った。

「ま、また明日、お喋りしようね!そして、出来れば笑ってね!てゆーか、笑わせてみせるから。そ、それじゃあ、またね!」

急に恥ずかしくなった私は日誌だけ掴み取って財前君が向かった側とは反対側の教室のドア、後ろのドアから教室を出て職員室まで走って行った。

「・・・ホンマ、面白い女」

財前君が机から落ちたシャーペンを拾いながら、私が惚れたあの笑顔を浮かべていることを、私は知らない。


1周年と5万打リクエスト企画より。

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