スーパースターの不在




彼女はまるで鏡だ。
俺が泣けば彼女も泣き、俺が笑えば彼女も笑い、俺が怒れば彼女も怒る。
鏡だ。
硝子のように繊細でいて、水のように透明な。
それが彼女、だ。

「帰ろ、
「うん」

は綺麗なのだ。
心が。
子供ような純粋さをずっと持ち続けている。
無邪気、とはまた違う純粋さ。
俺はそこに惹かれている。
決して自分からは繋いでこない手とか、決して俺の隣を歩かない足とか、そういう所にもまた。

、ええもん見せたろか?」

俺はそっとポケットに手を入れる。
潰さないように握る、紙の感触。

「良い物?」
「そ、ええもんやで?」

足の裏ごと半回転してと向き合う。
は小首を傾げて俺を見上げていた。
真っ直ぐに、若干水の膜が張った瞳で。

「これ。明日一緒に行こ」

ポケットから出したのは映画のチケット。
珍しく、本当に珍しく、が「見たい」と意思表示した映画のチケットだ。
に喜んでほしくて買った、2枚のチケット。
正直俺の趣味ではないけれど、が好きだというのなら俺もきっと好きになる。
そんな映画のチケットだ。

「あり、がとう」

はあまり嬉しくなさそうで、困ったように笑う。
喜んで、ほしかったのに。
けれどのその反応は俺の予想の範疇だった。
はきっとこう思ってる。
「謙也君は私が見たいと言ったから自分の趣味でもない映画のチケットを買ったのだろう。気を遣わせてしまった。あげく映画にも付き合わせてしまう。申し訳ない。私の我儘のせいで謙也君は2時間を退屈に過ごさなければならなくなった。申し訳ない」と。
俺はと一緒に映画を見たいと思っただけなのに。
だからといって「こういう系は苦手やけど、この映画は面白そうやな」なんて言ったらそれこそ本末転倒。
逆効果だ。
または「気を遣わせてしまった」と罪悪感を積もらせるのだろう。
彼女は余りにも純粋で、自虐的なのだ。

「明日駅前に11時でええ?」
「うん」

けれど俺がちゃんと笑えばもまた嬉しそうに笑う。
だっては、純粋だから。
いつかその自虐でその純粋さを失わなければ、いいのだけれど。





















映画はが見たいと意思表示するに値する出来栄えだった。
静かに進むストーリーに自然と馴染み込んでしまう。
気付けば俺の感性は映画の世界と一体化していた。
映画の中で主人公の青年が涙を零す。
すると俺も青年と同じように涙を零していた。
青年は咽び泣くのではなく、ただ涙を流していた。
無表情に伝う涙がスクリーンから伝わってくる。
俺もまた無表情なまま泣いていた。
嗚咽が漏れるでもなく、涙だけが零れ落ちる。
隣からの涙の匂いがした。










「ごめんね、謙也君」

は映画が終わるなりそう言った。
「ええ映画やったなぁ」と言おうとしていた俺の口は不恰好に半開きだ。

「何で謝っとるん?めっちゃええ映画やったし、と見れて良かったで?」

なんとか格好付けた唇。
は俺の涙の跡を拭うように掌を俺の頬に伸ばした。

「謙也君を悲しませてしまったから」

は俺の涙の跡を見つめてぽろぽろと泣き始めた。

「謙也君を悲しませる映画を見せてしまった。ごめんなさい。謙也君が泣いた時、出るべきだった」

の手が震える。
俺の頬の産毛も震えた。

「ちゃう。、それは違うんや。俺が泣いたのは、あの青年の気持ちが伝わったからや。影響されただけなんや。俺自身が悲しいわけやない。それにほら。俺は今めっちゃええ気分。ハッピーエンドやったろ?それで俺はもう泣いてないし、あの時出て行っていたらこんな清々しい気分になってへんかった。この映画を見れて良かったと思っとる。だからが悲しむ必要なんてないんやで?」

そこまで言って、の腕を引いた。
映画館の掃除の兄ちゃんがまだ座席に残っている俺達を迷惑そうに見ていたからだ。
は小さく「それなら、いいんだけど」と低いトーンで呟いた。
あの青年が泣いた時、は俺が泣いたから泣いたのかもしれない。
そう思うと瞼の裏が熱くなる。
映画の時くらいは俺を忘れてもいいのに。
は俺の感情の揺さぶりに敏感過ぎるのだ。
もっと自分のことを大切にすればいいのに。
俺を想ってくれるのは、嬉しいのだけれど。

「このまま俺ん家行こか?」
「・・・うん」

そういえば俺はの「嫌だ」という否定を聞いたことがない。
そう思いながら、の指に自分の指を絡めた。
それでも俺の隣を歩かない
「隣歩きぃ?」と誘えば素直に隣に来てくれるのだけど。
そんな所が好きなのだけど。










「麦茶でええ?」
「あ、お構いなく」
「ええって。そこで待っとって」
「うん。ごめんね」

謝る必要なんてない。
そう言いたかったけど言わないで、を部屋に残したままリビングに麦茶とコップに取りに行く。
を否定するようなこと、言いたくない。
硝子のコップに冷蔵庫から取り出した麦茶を注ぐ。
こぽこぽと台所に響く音。
何故か虚しい気分になった。
部屋ではが待っていてくれるのに。

、麦茶持って来たで」
「わざわざありがとう、謙也君」
は大事なお客様やからこれくらい当然や」

が「ごめん」と謝る前に言葉を重ねる。
行き場を失ったの言葉はどこへ向かうのだろうか。
そこで俺は気付く。
ああ、自身に刃物となって襲い掛かるのだと。
言わせてあげれば良かったと後悔。
もう遅い。


「何?」
「映画、また行こな?」
「うん」

こんな気の利かないことしか言えない自分に腹が立つ。
苛々する気持ちを抑えようと麦茶を口に含んだ。
横目で見たは泣きそうだった。

「・・・どうしたん?」

一口だけ飲んだ麦茶を置いての顔を覗き込む。
は俺と目を合わそうとはしなかった。

「謙也君、苛々してる。・・・私のせいだよね?ごめんなさい」

ああ、また彼女は俺の揺さぶりを察したのか。
純粋過ぎて困ってしまう。
俺のどんな小さな揺さぶりにも気付いてしまう、それに影響されてしまう彼女の純粋さに。

のせいやない。俺のただの自己嫌悪やから気にせんといて」

の考えていることがわかってしまう。
「その自己嫌悪の原因は自分かもしれない」と思っているに違いないのだ。
事実、そうなのだから。



の手を握る。
痛くないように、強く。



「俺はが好きやで?」



は顔を上げた。
まさに零れ落ちようとしていた水の塊がの瞳からぼろりと溢れた。

「だからが悪いことなんて何もないんや。のことが好きやから、が傍にいてくれて幸せなんやで」

そう、俺はが好きだ。
だから傷付いてほしくない。
自分を責めないでほしい。
そういった思いを言外に含む。
は敏感だから、その俺の思いを汲んでくれる。

「ごめん、ごめんね謙也君。私も謙也君が好きだよ。ただ嫌われたくなくて、それで、」
「わかっとる。ちゃんとわかっとる。はそういう子やもんな」

優しく抱き締める。
わかっているのだ、俺は。
多くを語ることを苦手としているは愛されている自信がないことを。
積極的に動けないは愛を伝えきれていない不安を抱いていることを。
わかっているのだ、全部、全部。

「大丈夫や、。俺はのことちゃんと好き、も俺のことちゃんと好き。そうやろ?」
「・・・うん」

そしてはわかっていないのだ。
俺がどれほどを好きなのかということを、全然わかっていない。

、俺はどんなでもそれがならずっと好きや。いつもの大人しいも大好きやけど、我儘なもきっと大好きや。せやから何か我儘言ってみぃ?」
「我儘言っても、嫌いにならない?」
「ならへん」
「じゃあ、このまま」
「ん?」
「このまま、もう少し抱き締めててください」
「喜んで、お姫様」

震えた手で俺の胸元のシャツを引っ張るは、やはりまだわかっていないのだと思う。
嫌われると不安に駆られ、俺の愛に不信を抱いているのだ。
俺にはそれがわかってしまう。
これからも俺の手に自ら触れることはなく、俺の隣に自ら立つこともないだろうこともわかってしまう。
これからも俺の感情ばかりを敏感に感じ取って写し取ってしまうこともわかってしまう。
それがなのだから。
そんなを好きになったのだから。
ああ、でも、いつになったら俺がどれほど愛しているのかわかってくれるのだろうか。
そう思ったら、俺は泣いていた。
するとも泣いていた。

「私が謙也君を泣かせたの?」

俺の腕の中では悲しそうに眉を顰めた。
違う、そんなを見たいんじゃない。
映画のチケットを見せた時だって、映画を見終わった時だって、今だって、いつだって、俺はが幸せそうに笑ってくれることを望んでいるのだ。

「謙也、君。私のせい、なの?」

ああ、
どうして君は俺の愛を感じてくれないのだろうか。



「せや。のせいで、俺は泣いてる」



は鏡だった。
硝子のように繊細でいて、水のように透明な。
何もかもを写し取る。
けれど鏡に愛が映ることはなかった。
しょうがないのかもしれない。
俺の愛を感じられないのは。
何故ならは、鏡なのだから。
鏡に愛は映らないのだ。



腕の中でワンワン大泣きしているを真摯に見つめる。
今度はは目を合わせた。
目が赤い。
腫れてる。

「俺に愛されてるってホンマのホンマに思ったこと、あるか?」

泣き腫らしたの瞳が大きく開かれた。
涙が潤滑油となり目玉がぼろりと落ちそうだった。
では俺はどんな表情だったのだろう。
それはわからない。
そしては唇を震わせて、確かに言った。

「な、い」

ひっくひっくとしゃっくり交じりの嗚咽が腕の中で反響する。
俺は映画の青年のように声も上げずに涙を零した。
馬鹿みたいにでかい喪失感。
声すら失うほどの、大きな。

「そうか。ないんか」

やっと出てきた声はそれだけだった。
とりあえずが「もう少し抱き締めてて」と言ったのでもう少し抱き締めたままにしておこうと思う。
それこそが俺の愛だということに彼女は気付くのだろうか。
気付くか気付かないかなんて、もう俺にはわかっているけれど。


1周年と5万打リクエスト企画より。

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