花殺し




『ああ、美しい花だね。君もそう思うだろう?』

覚えてる。
あの方が微笑んでいらっしゃったことを。

『主上、その者は女房故気安く話し掛けては・・・、』
『花の美しさを愛でるのに身分など関係あるまい。そうだろう?』
『は、はい』

覚えてる。
あの方が私に笑いかけてくれたことを。

『いつか君とゆっくり花を愛でる時がきたなら、その時は歌でも詠み合わせたいものだね』

覚えてる。
あの方の悠然とした佇まいを。
覚えてる。
あの時の胸の高まりを。

知っていた。
主上があの花をいつも愛しげに見つめていることを。

『その花に目を向ける者が私の他にいようとは、嬉しいことだ』






主上、主上、主上、主上。
貴方は知っていらっしゃいましたか?
私がいつも貴方を見つめていたことを。
私がその美しい花に嫉妬していたことを。
貴方は、あの時気付いていましたか?






、そこで何をしているのです?」
「あ、申し訳ありません」

あの方を真正面から見たあの日から、もう何日も経過した。
未だにあの方と共に花を愛でることはできないでいる。
あの言葉は戯れだったのかもしれない。
それでもいい。
夢だけ見させて。
私は大きな桜の木の根元に息づく小さな小さな名も無き花に夢を託してそこから去った。

あの方は、今日この花を見るのだろうか。

もしも本当にあの方と二人で花を愛でられたなら、私は死んでも構わないだろう。
夢は膨らみ、胸が躍る。
いつかあの方とこの花を愛でられたらいいのに。






最近、内裏で呪詛が目立つようになった。
つい先日、女房仲間の一人が倒れたばかりだ。
主上は無事だろうか。
そのことばかり考える。
あんなにも美しく咲き誇っていた小さな花は、干乾びて萎れてしまった。
これで夢は夢のまま終わってしまったのだと思うと息苦しい。
私はそっと小さな花に手を伸ばす。
枯れてしまった私の夢だ。

そしてその花に触れた瞬間、闇に呑み込まれた。

これは、呪詛だ。
黒い渦が体内を駆け巡り、肺を焼く。
声にならない悲鳴が上がった。


主上、主上、主上、主上、主上、主上、主上、主上。


あの方の笑顔が脳裏に焼き付いている。
もう一度、私に笑いかけてほしかった。


主上、主上、主上、主上、主上、主上、主上、主上。


手を暗闇の中に伸ばす。
何も掴めない、何も触れない。


主上・・・。


腕が黒く染まり、やがてその侵食は心臓まで達した。

「オ、カ・・・ミ」

そして私は醜い怨霊へと変貌した。












私は花を見ていた。
大きな桜の木の根元に息づく名も無き花だ。
私はずっとその花を見ていた。
誰も私を咎めない。
私は朝から晩まで、何日も何日もその花を見ていた。
何かを渇望している私の心が中途半端に満たされるのだ。
その中途半端がまた渇望を酷くさせる。
私が何を渇望しているのか、私にはわからない。
完全にこの心を満たすものが欲しいのに、それがわからずただ黒い渦の中で私は花を見るのだ。






「・・・君、は?」

時の経過を忘れ、花だけを見ていた時だった。
その声に神経が震える。

「主上!危険です!!それは怨霊でございます・・・!」

私が振り返ると、驚愕に顔を染めた人が立っていた。

「・・・オ 、 カ・・ ・、ミ ・ ・・」

その人を、私は求めた。
喉から漏れるのは「オカミ」という言葉。
愛しい響きだ。
手を伸ばす。

「下がれ!怨霊っ!!」

伸ばした手はその人に触れなかった。
電流のようなものが体に走り、動かない。
それでも私にはわかる。

この人がこの飢えを満たしてくれる。

私はやっとこの渇望という苦しみから解放される。
乾いた心にはもううんざりだ。
この人さえ手に入れば、私は・・・満たされる。

「・・ ・、オ ・ ・・ カ、ミ・、・・ 」

手が焼けるように痛かった。
実際、ぼとりと腕が焼け落ちた。
腕は黒く、床に落ちたら一瞬で蒸発してなくなった。
それでも私は私とこの人の間にある見えざる壁を破ろうと奮闘する。
すると、目の前の人は微笑んだ。


「ああ、約束を果たしに来たんだね」


触れていない、食べていない、飲み込んでいない。
なのに、満たされた。
その人の笑顔に心が満ちる。
花を見続けても埋まることのなかった心に、何かが埋まった。

「花・・・?」

ずっと暗闇の中にいた丸裸の脳が私に見せた最初の記憶は、花だった。
私が飢えの足しにしていた、あの名も無き花だ。

「そうだ、花だ。共に愛でようと、そう言ったね。中々時間が作れなくてすまなかった」


ああ、この人は。


片腕はもうなくなったけど、もう片方の腕は黒から肌色へと変色していく。
私の中で渇望が消え、黒い渦が霧散した。
曖昧だった自分の形がはっきりとわかる。
極小な黒い斑点の集まりに過ぎなかった下半身がしっかり人の形になっていくのだ。

「どうだい?今からでも、」

その人、主上の微笑みが一段と柔らかくなった。
それと同時に、私の形成されつつあった体が砂のように崩れ落ちていった。

「・・・え?」

残された片腕を見た。
しかし片腕は存在していなかった。

「主上!大丈夫ですか!?」

片腕があった場所から視線をずらしたら、そこには、

「・・・なぜ、こんなことに、」

辛そうに顔を歪めた主上がいた。


違う。私が見たかったのはそんな顔じゃない。


「お、か・・・、」

主上、と言い切る間もなく、私の意識は消え去った。
どうしようもない飢えと、どうしようもない愛しさだけを残して。



そして黒い粒子を含んだ風は、名も無き花を揺らした。
まるで何かを嘆いているかのように、何かを憐れんでいるかのように。

「主上」

花はそう呟いたようだった。


遙かの突発お兄ちゃん短編企画より。

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