日輪に群青のリボンで目隠し
山川さんにジャッカルを盗られる気がして、怖かった。
でも、もう怖くない。
山川さんにジャッカルは渡さない。
だって私は、他の誰よりジャッカルのことを愛しているのだから。
私の愛に勝てるわけないじゃない。
「可愛いな」
ジャッカルの言葉に、心臓が揺れた。
「あ、ありがとう…」
好きな人の突然の言葉にときめかずにはいられなくて、もう長い付き合いで、そんな初心なわけでもないのに、可愛らしく照れてしまったことが恥ずかしくて、エレベーターから足早に出る。
私は本当に、ジャッカルが好きなんだ。
胸の奥が熱いのは、鋭い日差しのせいではないのは瞭然だ。
ああ、もう、なんでこんなに好きなんだろう。
駅までの道程は陽炎が揺らめいていた。
コンクリートで目玉焼き作れる、これ。
「暑い」
私の発する言葉の全てに濁音が付く。
帽子は被っているけれど、被っていないよりはまだマシ、といった程度のことで、暑いものは暑いのだ。
ラテンの血が混ざっているジャッカルもやはり暑いらしく、足取りはどこか重い。
早く電車に乗って、暑さから解放されたいのに、足はとろとろと鈍行だ。
「どこでもドアが欲しいぜ」
「同感。全人類が望んでいることなんだから、早く開発してほしい。幸村君なんか、作っちゃいそう」
「ああ、なんかわかる。ちょっと弄ったらどこでもドアになった、とか言い出しそうだ」
とても爽やかに笑って、これがどこでもドアだよ、と言う幸村君の姿が一瞬で想像できた。
「流石幸村君」
「神の子だからな」
駅に着いたら、丁度2分後に電車が来た。
電車に乗客は疎らで、ジャッカルと2人で並んで座る。
体に纏わりついていた熱気が冷房に一気に払われる。
それはいいのだが、やっぱり冷え過ぎだ。
顔を少し顰めたのに気付いたジャッカルが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「長袖、羽織らないのか?」
「たった5駅だし、面倒かなって思って持って来てない」
「それで体調悪くしたらどうすんだよ」
「これくらい平気」
大丈夫だと念押しするが、ジャッカルの顔は晴れない。
長年一緒にいてわかってはいたが、ジャッカルにとって女の子っていうのは守るべきか弱い存在で、気を配ってあげなければ倒れてしまうと思っているらしい。
それはジャッカルの元からの優しさや気遣いという気質に関わっているのだろう。
更に言うなら、中学時代の青春を殆ど一緒に過ごした山川さんが、まさにそういう女の子だったということもある。
山川さんは何せ、部活のマネージャーの仕事で無理をして倒れたことが数回あるお姫様なのだから。
そこまで思って、私は意を決した。
「私、山川さんと違って、そんな簡単に倒れないよ」
私が、私と山川さんを比べるようなことを、自らの意思でジャッカルに告げるのは、一生ないと思っていた。
そんな勇気、あるわけないと。
でも案外すんなりそれは言えた。
多分、先日の宣戦布告のおかげだ。
ジャッカルは少し虚を突かれたような顔をして、首を傾げた。
「そうか?…それより、なんで山川の名前が出てくるんだよ。俺はが心配なだけだ」
本当に疑問に思っているみたいだ。
ジャッカルの女の子像に山川さんの影響が大きいことは私にはわかっているけれど、きっとジャッカルは無意識で無自覚なのだろう。
そして、ここで山川さんに疑問を持つくらい、山川さんのことは何とも思っていないのだ。
勝った、と心の中でガッツポーズをした。
もしもここでジャッカルが「山川?ああ、確かに」とか言って、山川さんのことを少しでも思ったのなら、ちょっと不安になったかもしれないけど、そうじゃない。
「とにかく、調子悪くなったりしたらすぐ言えよ?」
「うん」
ちゃんと私は、ジャッカルに思われている。
嬉しい。
うん、これなら大丈夫だ。
いろいろ話しても、大丈夫だ。
「私ね、山川さんに嫉妬してた」
そう、暴露したのは電車を降りて、バスに乗り換えてからだ。
「嫉妬?」
本当にわかってないんだなー、とジャッカルの反応を見て思う。
山川さんに好意を抱かれていることとか、全然気付いていないんだ、ジャッカルは。
同時に、私ばっかり意識していたんだと思い知らされた。
「私はさ、知っての通り、テニスに興味なくて、ジャッカルのテニスしてる姿を見ようとも思わなくて、ジャッカルの大切なテニスを全く理解できないじゃん」
「でも、試合に呼んだら来てくれただろ?充分だって」
「いや、でも普通さ、大切な試合とか、来いって言われなくても行けよって感じじゃない?」
私は、テニスの大会があると言われたが、見に来いとは言われなかったので行かなかったという過去がある。
その度に、丸井君に「いや、行けよ」と言われたが、結局ずっと、見に来いと言われない限り試合を見には行かなかった。
「そのことは、前にも1回話しただろ?」
「まぁ、そうなんだけど、やっぱり私は山川さんの方が、いいんだろうなーって思ってたよ。テニス部のマネージャーだし、テニスのことわかってるし、ジャッカルとテニスっていうすごく強い繋がりがあるからさ」
交差点をバスが曲がって、体がジャッカルの方に傾いた。
そっと、ジャッカルの手が私の手を包む。
「俺は、テニスを度外視して、繋がれたことが嬉しかった」
バスの運転手の「植物園前ー、植物園前ー」というアナウンスが流れ、ジャッカルが降りますのボタンを押す。
「山川さん、可愛いよ?」
「の方が可愛いし美人」
「山川さん、性格良いよ?」
「は優しいし、素直だし、クールなところもあるけど明るくもあるし、落ち着いてるし、でも可愛いし、すごく魅力的だと思う」
「山川さん、色白でグラマーだよ?」
「なっ!!」
ジャッカルがすごく慌てたところで、バスが止まった。
私が先に席を立ち、バスから降りると、ジャッカルが「ちょっ、!」とやっぱり慌ててバスから降りてくる。
「私は典型的な黄色人だし、胸もBだし?スタイル悪いわけだけど?一方、山川さんは背は小さくて、色白で、細くて、なのにおっぱい大きいっていう、最強装備ですけど?」
中学の体育祭で、その豊満な胸を揺らして走る超可愛いロリ顔の山川さんに、男子達が盛り上がっていたのを私は覚えている。
ジャッカルも盛り上がっていたのかどうかは知らないけど、それを見て何だか泣きそうになった記憶があるのだ。
「いや、、その、色白でグラマーな子が好きなタイプっていうのは、若気の至りみたいなもんだしよ」
「…これは、否定もフォローもしないんだね。私のスタイルが悪いっていうのは否定しないんだね、ジャッカル」
「いやいやいや!俺はのスタイルはかなりいいと思うぞ。丁度いいというか、バランスとれてるっていうか」
ジャッカルの顔が赤くなっているのは、この夏の日差しのせいだけではないだろう。
なんか私も恥ずかしくなってきた。
「とにかく!俺は、の顔も体も性格も、の全てが好きなんだって…、まぁ、そういうことで…」
勢い余って大胆発言をしてしまった、とジャッカルの顔に書いてあった。
ジャッカルは手で口元を抑えて、すたこらさっさと植物園のチケット売り場に向かう。
私は私で、あまりに嬉しいことを言われてしまったので、少し固まってしまった。
そして足早にジャッカルの後を追う。
チケットを購入したジャッカルと一緒に、植物園に並んで入った。
2人揃って、顔を赤らめて、お互い恥ずかしげにそっぽを向いてるとか、どこの付き合いたてのカップルだ。
もう、6年も付き合ってるのに。
「は、」
植物園の中を歩き始めて、少ししてお互い落ち着いた時だった。
ジャッカルが真っ直ぐに私を見つめたのは。
「は、山川に嫉妬して、俺から距離を置いたのか?」
大きく枝を伸ばして青い葉を広げる木々と、大きな草花がふわりと揺れた。
ガラス張りの部屋の中で吹いたのが人工の風なのか、それとも開いている窓からの自然の風なのかはわからないけど、気持ちいい。
「うん」
私は頷いて、植物園の中を進む。
ジャッカルは私の隣を歩いた。
「ジャッカルに、山川さんと私を比べられるのが嫌で、怖かったの。山川さんは素敵な人だし、私には山川さんに勝てる要素なんてないと思ってたから」
それに山川さんがジャッカルのことが好きだし、とは言わないでおいた。
それを私が告げるのは、あまりにも狡くて汚いし、そもそも言う必要はないだろう。
「私なんかが、一緒にいていいのかなって、最近そればっかり考えてたの」
そして自動ドアの前に立ち、ガラス張りの部屋から出る。
少し歩くと、中央広場だ。
真ん中に噴水があって、それを囲むようにパンジーなどが咲き誇る。
ドーナツ型になっている道を外側から囲むのは、向日葵だ。
無数の向日葵が太陽に向かって大きく花弁を広げていた。
噴水の水しぶきが太陽に光って、キラキラする。
しかも涼しい。
中央広場を抜けると、そのまま煉瓦の道が続く。
低木が広がるそこでは雀が鳴いていた。
「俺も、に俺は相応しくないんじゃないかって、そればかり考えてた」
ジャッカルの言葉に、思わず顔を上げる。
ジャッカルは私の方を見ず、口元に小さく笑みを作っていた。
「は、昔から幸村やブン太と仲良かったしさ。俺だとあいつらみたいに華ねーし。はで、どんどん綺麗になるし。俺なんかと付き合ってても楽しくも何ともないだろって、思ってたんだ」
ぽかん、と口が半開きになるのを抑えられない。
私とジャッカルは、もしかしたら同じようなことを同じように悩んでいたのではないだろうか。
「俺ばっかり、と一緒にいて幸せなんじゃないかなって」
「そんなことない!」
それはほぼ反射だった。
私もジャッカルも立ち止まった。
「私の方こそ、ジャッカルに何も返せてなくて、申し訳なくて。いつも優しくて、気遣ってくれて。ジャッカルは私を部屋に上げる時、いつも私に合わせて冷房の温度調節してくれるし、そういうのに対して、私は何もジャッカルにしてあげられないし。私は、ジャッカルの彼女でいていいのかなって」
ジャッカルはなんだか驚いたような顔を見せた。
そして、柔らかく笑った。
「俺は、が彼女ですごく幸せだし、嬉しいぜ。のこと、好きだからよ」
トクン、トクンと胸の奥がキラキラ光った。
それこそ、水に光が反射してるみたいに。
「俺はに相応しくないのかもしれないけど、のことは大好きだから、絶対に手放したくないって思ってる」
もう1回、フッと笑って、ジャッカルは足を進める。
私もつられるように、ジャッカルの隣を歩き始める。
「私も、ジャッカルに相応しくないとか、そういうのでたくさん悩むけど、結局ジャッカルのことが好きで好きで好きなわけだから、ジャッカルと別れたくないし、ジャッカルのこと、誰にも譲らないって決めたよ」
山川さんにだって、譲ってやらない。
そう、もう1度決意する。
「やっぱり、ちゃんと話さないと駄目だな」
「そうだね」
ジャッカルの思ってることは私に、私の思ってることはジャッカルに、言葉にしてちゃんと伝わった。
なんだ、ちゃんと両思いじゃん、私達。
低木の道はもう終わる。
道の向こうには赤と白の花が広がっているのが見えた。
薔薇だ。
「わぁ…」
低木の道から抜け、リニューアルしたという薔薇園に一歩踏み出したら、思わず声が漏れた。
赤と白の薔薇が可憐に、けれど美しく咲き、視界を埋める。
「すげーな」
「うん」
2人で薔薇を眺めながら、ゆっくりとした足取りで歩く。
私は恐る恐る、ジャッカルの服の裾を掴んだ。
「私、ジャッカルの傍にいてもいいの?」
薔薇でできたアーチに、ふと目を奪われると、頭上から愛しい声が降ってきた。
「いろよ、ずっと」
顔を上げると、ジャッカルがどこか必死そうに、苦しそうに、切なそうに、愛しそうに、私を見つめていた。
その顔に、目に、表情に、私の細胞という細胞が、キューっと締め付けられた。
「俺はとずっと一緒にいたい」
ジャッカル、とその名を呼ぼうとしたけれど、ジャッカルが続けて口を開いた。
「俺、いつかプロポーズするつもりだし」
白と赤の薔薇がふわふわ揺れた。
薔薇に負けず劣らず顔の赤いジャッカルは、ぷいと顔を背けた。
耳まで真っ赤だからあまり意味がない気がするけど。
私は身体の芯がカーッと熱くなるのを感じた。
「ジャッカル!」
ぐい、と私とは全く違う色をしたジャッカルの腕を引く。
そして私は私らしくないことをした。
そう、山川さんなら普通に彼氏にやってしまえるであろうことだ。
勇気を振り絞って、ありとあらゆる恥を捨て、自分の唇をジャッカルの頬に押しつけた。
「大好きだよ、ずっと」
今の自分にできる限りの、満面の笑みを向ける。
ジャッカルはさっきより更に顔が赤くなった。
私も頬がほんのり赤くなってるのだろう。
誤魔化すようにまた小さく笑って、ジャッカルをおいて薔薇園の道を歩く。
色鮮やかな赤と雪のような白が咲き誇る光景が視界を埋めた。
瞬間、腕が引かれバランスを崩し、体が温かいものに包まれ、視界が遮られる。
ドクンドクンという、心拍を感じる。
「」
耳元で愛しい声が私の名前を囁いた。
胸が少しずつ膨れていく。
満たされていく。
「俺も大好きだ」
この6年で何回も聞いたはずの言葉だ。
なのにどうしてか泣きたくなった。
目の奥がジンとする。
今、口を開いたら、嗚咽が漏れてしまうだろう。
ぐっと唇を噛みしめた。
けれど私の努力を知ってか知らずか、ジャッカルの吐息は私の鼓膜を、心臓を震わせる。
「世界で一番、愛してる」
ドラマかマンガによくある、気障で陳腐な台詞だ。
そう思えたのに、涙が出るくらいその台詞に感動している自分がいた。
「私も、ジャッカルを世界で一番愛してる」
こんなこと言うの、たぶんこれっきりだ。
雰囲気に流されているのかもしれないけど、気持ちは本物だ。
私はジャッカルを他の誰より愛していると一点の曇りもなく言える。
9歳の時、あなたの優しさに触れた時から、ずっとずっと好きなんだから。
「ちゃんとプロポーズしてね。私、ちゃんと「はい」って答えるから」
「ああ、任せておけ。きっと最高のプロポーズにする」
夏の真昼、薔薇の咲き誇る中で、ジャッカルに告白された真冬の深夜を思い出した。
あの時以上に幸福な瞬間なんて無いと、かつては思っていたけれど、最高に幸せな時は案外たくさんあって、これからもきっとたくさんあるのだろう。
そしてそれは殆どが、いや、全部がジャッカルに関することなんだろうな。
「ねぇ、ジャッカル」
「ん?」
「あと60年くらい、よろしくね」
「こちらこそ」