バイト帰りの雨




休日のスーパーで8時間労働を終えた私の疲弊に圧し掛かるように、関係者のみ使用可能の裏口の外を、大粒の雨が埋め尽くしていた。
バイトに来る30分前に起きた私に天気予報を確認する余裕などあるわけなく、この雨は予想外だ。
裏口で立ち尽くす私の横を、バイト仲間が傘を片手にすり抜け、私に見せびらかすように、バッと傘を広げて雨のカーテンをくぐっていく。
このままスーパーのバックに戻って、傘立てにまるで剣山のように突き刺さっている大量のビニール傘から1本拝借することは容易だ。
けれど私は、裏口の扉から横にずれ、そこに佇む。
私は甘えているな、と自虐しながら、ざぁざぁと降りしきる雨を眺める。

「傘ないの?さん」

ガチャリと裏口が開いたとほぼ同時に、一応バイト仲間である澤さんが爽やかに話し掛けてきた。
澤さんは私のひとつ年上の男性で、バイトでは部門が違うため、ほとんど話さない。
私が男性と積極的に話すタイプじゃないし、そういうタイプなのだと澤さんも理解しているため、澤さんから話し掛けられることもないのだ。
話すのはバイトで必要なことだけ。
だから私は、今、澤さんに話し掛けられたことに驚いたし困ったし、ときめいた。

「はい、ないんです、傘」

微笑みを浮かべてそう言えば、澤さんはいつもの爽やかな笑みを崩さずに「じゃあ、入っていく?」と持っていた傘を掲げた。
澤さんはイケメンで頭もよくて体つきもよく、優しいのでバイトの女の子の間では人気NO.1だ。
いわゆるギャルと呼ばれるような子達は積極的に仲良くなり、「付き合おーよー」なんてノリで告げているらしいが「無理」とバッサリ断っているというのを更衣室でよく聞いた。
彼女がいるというわけでもないらしいので、今は彼女とかいらない系か、もしくは好きな人がいるんじゃないかとも話していて、「えー、ヤダー」なんて言っていた。
そんなモテモテな澤さんが持ち前の優しさを振り分けてくれると言う。
きっとここで肯定すれば、帰り道はとても充実したものになるだろう。
けれど私は首を横に振った。

「いえ、大丈夫です。迎えが来ますから」

多分、という言葉を喉の奥に飲み込んだ。

「そっか。…彼氏?」

澤さんの探るような目線と口調に、もしかしたらこの人は私のことが好きだとかいう展開なのかもしれない、なんて変な妄想を抱く。
女は簡単に勘違いするし、勝手に盛り上がる生き物なのだ。
だからもし、澤さんが私のことを好きだと仮定して、私は無邪気を装って答えた。

「はい、彼氏が来てくれるんです」

語尾にハートマークが付くような甘ったるい声は、もしかしたら澤さんの胸に鋭く突き刺さったかもしれない。
私は都合のいい仮定を抱いたまま、心の中で「ごめんね」と言う。

「そっか、彼氏いたんだね」

澤さんの爽やかな笑みは少しだけ崩れていて、あれ、と思った時だった。



低くて優しい声が、雨の音を掻き消して、響いた。
そちらに目線が向いたのは、澤さんと同じタイミングで、私と澤さんの目には、紺色の傘を差して無愛想に立っている男の人が映る。

「卓也君」

思わず私の唇から彼の名前が漏れた。
本当に迎えに来てくれた、と勝手な私の期待と甘えに意図的なのか何なのか答えてしまった彼氏の名前を。

「彼氏?」
「はい」
「そっか、じゃあ俺はもう帰るね。ばいばい、さん」
「はい、お疲れ様です」

私が小さく頭を下げ、澤さんが傘を広げて雨の中を進むと同時に、卓也君がこちらに歩いてきた。
澤さんと卓也君がお互い会釈を交わして擦れ違う。
私はその光景を見て、なぜか焦っていた。
別に、澤さんと浮気しているとかでもないのに。

「やっぱり、傘持って来てなかったんだな、お前」

呆れた、とでも言うように卓也君は溜息を吐いた。

「そもそも傘なら大量に置いてあるんだろ、ここ。それ使おうとか思わなかったのかよ」

卓也君の持つ傘から雫が流れて落ちていく。
私はスッとその傘の中に入り、卓也君の胸板に額をコツンと当てる。

「卓也君が、迎えに来てくれるかなって、思ったの」

そうやって勝手に卓也君に甘えたのだ、私は。
いつだってそう。
私は卓也君に甘えてばかりいる。
そして卓也君は私のそれを受け入れてくれる。

「それでナンパされてるんだから、しょーがない奴だな」

傘を持たない方の大きな手が、くしゃりと私の髪を撫でた。
卓也君の声も、胸板も、掌も、私を癒してくれる。
今日の8時間労働の疲れが雨の中に溶けていくようだ。
先程の焦りもどこかに行った。

「ナンパじゃないよ」
「ナンパだろ。あいつ、絶対のこと好きだ」
「ああ、やっぱりそうなのかな」

なら、澤さんには本当に残酷なことをしたのかもしれない。
でも悪いとは思わなかった。
卓也君がメールも何もしていないのに、私の現状を察して迎えに来てくれたことでもう胸も心もいっぱいだ。
澤さんなんて、入る隙間などない。
ときめいたのは私が女だからというだけだしね。

「帰ろう、卓也君」
「ああ、そうだな」

ぴったりと寄り添って、卓也君とひとつの傘を共有して歩く。

「私、卓也君とこうやって歩くの好き」
「だから傘は1本にしたんだよ」
「うん、ありがとう」
「どーいたしまして」

こうやって迎えに来てくれるところとか、私の頭を撫でてくれるところとか、傘を1本だけにしてくれたところとか、本当に卓也君は私を甘やかすのが上手い。
だから私は卓也君が好きなのだ。
私をぶっきらぼうだけど優しく大きな愛で甘やかしてくれるから。

「卓也君、あとでご飯作って」
「あー、はいはい」

きっとこの後、卓也君は私に美味しい夕飯を作ってくれる。
そしたら私はぐだぐだ横になったり怠けてしまって、卓也君は「風呂に入れ」なんて言うのだ。
だらーっとお風呂に入って、お風呂から出た私の髪の毛をタオルで拭いて、ドライヤーで乾かしてくれて。
「膝枕」と言えば膝を貸してくれて、そのまま寝てしまう私を卓也君は丁寧にベッドに運んで、最後に額にキスをして、電気を消して、静かに部屋を出て行く。
いつものように、私を甘やかしてくれる。
そんな私を鬱陶しいとか面倒だとか思わないのか、聞いたことがある。
卓也君は、「に甘えられるのは好きだ」と言ってくれた。
そこで私は確信を強固なものにできた。
澤さんのような勝手な仮定でも何でもなく、卓也君は私のことが好きなのだ。
だから私は、他の人には絶対に見せもしないような甘えたがりっぷりを存分に卓也君に発揮している。
卓也君が好きで、卓也君に好かれていて、甘えて甘やかされて。
そんな日々を、過ごしている。


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