こんなところにいた




いつも通りの朝だった。
平和島静雄をストーカーする為、平和島家をこっそり窺っていた。
そこまではいつも通りだった。
けれど、彼女―にひとりの男が声をかけた。


「ねぇ、さん。俺と一緒に来てくれないかな」


が振り返った時、その目に映ったのは折原臨也だった。


「嫌です。平和島静雄君を尾行しなければいけないので」


即答だった。
は平和島静雄が家を出る瞬間を見損なってはいけないと、すぐに臨也から平和島家の玄関へと視線を移す。
しかし臨也は彼女に話し掛ける。


「お願いだよ、さん。俺の為なんだ」
「尚更無理ですね。それはつまり、平和島静雄君の為ではないということですよ」
「そうだね。俺はシズちゃんを殺したいから。でも、もしかしたらこれはシズちゃんの為になるかもしれないよ?」
「もしもその可能性があるとしても、平和島静雄君を追う以上の価値があるとはとても思えません」
「そうか、じゃあ取引をしよう」


にっこりと笑う眉目秀麗な男の顔を、彼女は見ようともせず、静かに平和島家の玄関を見つめていた。
今の彼女にとって、世界にいるのは最高に素晴らしい平和島静雄か、平和島静雄以外のどうでもいい人達かに二分されているのだ。
だから折原臨也の言葉に心を揺り動かされることはなかった。
けれど、今の彼女にとって1番は平和島静雄なのだ。
臨也が次に発した言葉で、彼女はゆっくり振り向いた。


「俺と一緒に来てくれれば、シズちゃんに手を出すのは暫く控えるよ。そうだな、1ヵ月はシズちゃんの望む日常をプレゼントしよう」


は平和島静雄のストーカーだ。
だから彼女にはわかっていた。
平和島静雄が平凡な日常を望んでいるということを。
ただ平和島静雄に見惚れているだけでわかってしまえるほどに、彼は“普通”に焦がれているのだ。
しかし折原臨也の取引は、そんな“普通”を手に入れた1ヵ月後、また非凡な日々に舞い戻る苦しさを平和島静雄に与えるだけだということが彼女にはわかっていた。


「平和島静雄君に1ヵ月の安寧は、とても良いことだと思います。でも1ヵ月後は、駄目ですね」


何の感情もないかのような能面の顔と、感情が入り乱れた瞳は、酷くアンバランスに見えて実は整っていた。
臨也はニヤッと笑う。


「1ヵ月の平和を堪能するシズちゃんを見たいとは思わない?」


ここで断ったらもう二度とこんな機会ないんだよ、と言外に含む臨也は相変わらずニヤニヤとしていた。
何が平和島静雄の為になるのか、平凡である彼女には全くもってわからない。
けれどは決断した。
己のストーカー魂によって。


「貴方は約束は守る男ですか?」
「当然」





「で、君が俺に着いて来てくれると決断した理由は何かな?」


今平和島静雄君はどんな顔でどんな仕草をしているのか、気になってそわそわしているに対して、折原臨也は平静だった。
制服を着て昼前のカフェでのんびりとコーヒーを飲む2人は、学校をサボってデートしているように見えなくもないが、見た目だけは良い折原臨也という男と平凡で地味でどこか野暮ったい雰囲気のという女は、なんとなくカップルには見えない2人組だ。


「言わないと駄目ですか?」
「俺が電話1本かけるだけで、シズちゃんを狙った他校生の不良が学校に群がるよ?」


は少し考えて、手元のコーヒーをスプーンで掻き混ぜた。


「平和島静雄君の望みだからです」
「それだけじゃないでしょ?」
「確かにいろいろな考えが渦巻いてはいますが、口で説明するのが難しいので」
「いいよ別に、頑張って説明してよ」


小馬鹿にしたような態度を取る臨也に、少々嫌気が差しながらも、は話を続ける。


「私は私の平凡さ、そして矮小さを自覚しています。だから私は平和島静雄君に好きになってもらおうとか、何かしてあげたいとかそんな恐れ多いこと思わないんです。そうであるべきなんです。でも平和島静雄君を見続けて、お昼までご一緒させていただいて、平凡で矮小な私は図々しいことに、平和島静雄君の為になれることがあるならしてあげたいと思いました。しかも、下心を基盤にです。私なんかが近付いていい人ではないのに、近付きたいと願ってしまいました。だから私はお話をお受けしたんですよ、折原君。平和島静雄君への恋心が余計なお世話をしたがったんです」


折原臨也は心の中で彼女に拍手を送った。
異常な人間である平和島静雄を、普通な人間であるが、普通に好きだったことにだ。


「案外、普通な理由だね」
「私はいつだって、普通ですよ」
「いっそ狂っていれば、歪んでいれば、面白かったのに」
「普通ですみませんね」


全くだ、と声には出さずに返答して、臨也はコーヒーを啜る。
も黙ったまま、コーヒーを飲み続けた。


「コーヒーを飲み終えたら出ようか。放課後までデートしよう」


臨也がその整った顔を完璧な二枚目にして告げたお誘いに、はうんざりした様子で答えるのだった。





その後の2人はデート、というか一緒に街をぶらぶら散策したに過ぎなかった。
臨也が何か言えばはそれに答えるといったくらいで、特に楽しくも何ともない、退屈な時間だ。
そしてそろそろ放課後かという時、臨也はをある倉庫に連れて行った。


「じゃあここにいてね。1時間したら出ていいから」


臨也はそれだけ答えて出て行った。
倉庫の扉は閉じられはしたが鍵はかかっていない。
というか、扉が妙にひしゃげて鍵がかけられないようだ。
不良でもぞろぞろと入って来るのかと少し身構えたが、そんな雰囲気は見られず、は暇を持て余すだけだった。





一方、を探す平和島静雄は、悪い光景ばかりを思い浮かべていた。
不良に拉致され乱暴でもされているのではないか、とか。
そんなことばかり想像しては頭を振って掻き消す作業を繰り返し、走る。
朝から放課後まで閉じ込められるような場所だ。
潰れたバーや喫茶、廃ビルの一室、もしかしたらトイレの個室とかもあるかもしれない。
そんな無数の可能性の中、平和島静雄が直感したのはある倉庫だった。
何度か臨也に誘導されたことのある倉庫。
不良が大量に待ち伏せしていたこともあるし、入った途端鉄柱が倒れてきたこともある。
そして閉じ込められたこともある。
自分が閉じ込められた時は、扉を壊して出たからいいものの、あのストーカー女は普通の女なのだから、出られないだろう。
そう思うとまた余計な心配をしてしまう平和島静雄だった。
この平和島静雄が目を付けた倉庫こそ、がいる倉庫なのだが、自身が扉を壊した後修繕されていないことは知らないので、実はが自由に出れるということは思いもしていないのだ。
だからこそ、平和島静雄はストーカー女の無事を強く願っては顔を歪める。
間違いなく自分のせいで危ない目にあっている人が現在進行形でいるのだということが、平和島静雄には痛くて仕方がなかった。





退屈で倉庫の隅に座り込んでいたは、倉庫の前に人が集まっているのを感じて立ち上がった。
緊張が体に走る。
ざわざわと倉庫の扉の外側からの喧騒は、どこか下卑ていて、不良と呼ばれる人達だろうと予想できた。
遂に来たか、とはぎゅっと拳を作り、大きく息をした。
臨也が出て行ってから30分くらいしか経っていないため、この場から逃げ出すことなどできない。
逃げ出したら、平和島静雄に1ヵ月の平穏を与えることができないのだ。
だから逃げない。
そう覚悟をし、ギギギと開く扉を睨んだ。
太陽の光が、薄暗い倉庫に差し込む。
そして、扉があき、緑色の髪をした、いかにも不良といった男が現れた瞬間、その男が倉庫の奥に向かってぶっ飛んだ。
ギュワンという音と共に地面と平行に飛んだ男は、大きな音を立てて、その扉から300メートル先の1番奥の壁にぶつかった。
そして開きかかった扉はまたギィと音を立てて殆ど閉まる。
てめぇ!や、この野郎!といった怒号が聞こえたが、それがある暴力の前に叩きのめされているのがにはわかった。
平和島静雄を見に行きたいとは思ったが、足がその場から動いてはくれなかった。
外で続く暴力の音を、は聞いているしかなかった。





倉庫に着いた時、平和島静雄の目に映ったのは、金属バットや鉄パイプを持つ男達だった。
倉庫に今から入ろうとしているのを見て、もしもあの中にあの女がいたらと思ったら、もう平和島静雄は扉を今しがた開けた男を殴っていた。


「ここに来ればてめぇが現れるって聞いたけど本当だったなぁ!!」


そう言ったのは男達の中心にいた長身の男で、平和島静雄は男達の間を抜けて扉の前の男を殴っていたものだから、扉を背後に囲まれている状況だった。
ちらりと倉庫の中を見ようとしたが、立てつけが悪いのか何なのか、扉はもう殆ど開いていなかった。
しかし、自分がここに来ると予想されていたということは、この倉庫の中にあのストーカー女がいることは確実だろうと考え、平和島静雄はこの扉を守ることに決めた。
そして、扉を背に平和島静雄は自分に殴りかかって来る奴等を容赦なく殴り飛ばし続ける。
圧倒的な暴力で捻じ伏せれば捻じ伏せる程、あのストーカー女を守っていることになる。
けれど、この暴力がなければ、自分さえいなければ、彼女はそもそもこんな目に合わなかった。
平和島静雄は自分への戒めのように、爪を手のひらに食い込ませて、奥歯を噛み締めて、拳を振るった。



シン、とした。
次にバタバタと大勢の人が逃げ去っていくのがわかった。
平和島静雄君が全部倒したんだと確信を持って、は大きく息を吐き出した。
そしてそのとき、初めて自分の心臓が大きく脈打っていたことに気付いた。
不良が来たことへの恐怖なのか、平和島静雄が近くにいることへのときめきなのか、よくわからなかった。
はやっと足が動いたので、扉の方へ歩き出す。
一歩、扉へと近付く度に、鼓動が激しくなる。
先程までとは違う、それは明らかに桃色のものだ。
吐息も震えた。
そして、遂に扉へと辿り着き、はそっと扉を開けたのだ。
開けるだけで出たりはしないと心に一度刻み付けてから。
ギギギと鈍い音が響き、薄暗さに慣れていた目に強い西日が差し込んだ。
眩しさで一瞬目の前が白くなったが、細めた目が光に馴染むと、彼女は見た。
少しばかり汚れた平和島静雄が、光の中に立っていた。
平和島静雄は扉を背に、空を仰いでいた。
その背中は思った以上に近くにあり、心臓が驚きで跳ねあがる。
扉の音か、人の気配にか、平和島静雄は振り返った。
そして、彼は自分に気付くと笑った。
柔らかく、嬉しそうに、安心したとでも言いたげに、優しく笑った。


「無事だった」


自分に確認でもするかのように、平和島静雄はそう言った。
そしてその優しい笑みは徐々に暗くなり、泣きそうな笑みになる。


「悪いな、俺のせいで。もう、ストーカーなんてすんなよ」


は平和島静雄を見続けていた。
だから平和島静雄が何を思っているのか、何を望んでいるのかが大体わかるし、何が彼の琴線に触れるのかも大体わかる。
は、今、何を彼に言うべきなのかもわかった。
彼女は穏やかに笑った。


「平和島静雄君、私は貴方に恋をしました。ですからストーカーさせてください」


平和島静雄への告白だった。
彼女のその告白に、平和島静雄は驚いた様子を見せる。
そして顔を顰めた。


「危ない目にあっただろ…」


は笑顔を崩さない。


「いいえ、あってません。折原臨也と一緒にはいましたが、ただ散歩しただけです。確かに先程の不良さん達が入って来てたら危なかったかもしれませんが、それは平和島静雄君のせいではありません。私が折原臨也に私の判断で着いて行って、勝手にここでひとりでいただけですから」
「脅されたとかじゃねーのか」
「脅しではありません、約束です」
「約束?」


平和島静雄は怪訝そうにした。
何せあの折原臨也のことだ、何かあるに決まっている。


「はい。これから1ヵ月、平和島静雄君は安寧です」


安寧、という言葉はどういう意味だったか、知っているけれど、そう疑問に思わざるを得なかった。
それは平和島静雄が望んではいたが、同時に諦めてもいたものだ。


「今日、折原臨也に付き合った代わりに得たものです。しかも私はお茶を飲んでお話して歩いてここにいただけ。だから、平和島静雄君のせいで危ない目なんてあってないですし、平和島静雄君から離れる理由にはならないんですよ」


平和島静雄は嬉しかった。
そして嬉しいという気持ちに気付いて、自分を必死に罵った。


(駄目だ駄目だ駄目だ。俺みたいな奴が他人と関わるな。一緒にいるな。離れてもらうんだ。傷付ける前に。俺は他人を不幸にする。傷付ける。短気だし、いつ我を忘れてしまうかわからない。俺を好きだと言ってくれたからこそ、離れないと駄目なんだ)


けれど平和島静雄の口から出たのは、否定の言葉ではなかった。


「お前は、俺の為に、危ない目にあうかもしれないのに臨也に着いて行ったのか?」
「はい」
「何かされても良かったのか?」
「はい」
「そんなに俺のことが好きか?」
「はい、好きです」


平和島静雄は目の前の女を見た。
笑みを浮かべ、真っ直ぐに自分を見つめる好意の視線。
何を言えばいいのかわからなくなる。


「平和島静雄君」


が愛していると言う代わりのように、その名を口にした。


「貴方が他人を傷付けるとか、力が暴走するとか、そんなのどうだっていいんです。私は貴方が好きで、貴方を見ていたい。そんな私の気持ちは誰にも否定できないものです。寧ろ、貴方に離れろと言われる方が私は傷付くんです。まぁ、貴方になんて言われようと、私の恋心が貴方から離れるなんて有り得ないんですけどね」


少し悪戯に笑った彼女を、平和島静雄は羨ましいと思った。
こんなにも素直に、真っ直ぐに自分の気持ちを伝えることのできる彼女はすごいのだと。
にとって、平和島静雄の力がどうでもいいこととか平和島静雄が好きだということは、全部普通のことで、普通に伝えただけだったのだが、平和島静雄にはその言葉全てと伝えるという行為は特別に思えた。
そして、こんなにも自分に思いを伝えてくれる彼女と比べて、自分は何なのだろうと自分を恥じた。


「俺は、」


もう誰かを傷付けたくないから、誰にも関わってはいけないのだと、他人と距離を置くようにしていた。
でも本当は、本当は。


「俺はひとりでいたくないんだ」


の顔から笑みが消えた。
半開きの口は息を忘れたかのようだった。
なぜなら、平和島静雄が涙を流してはいないが泣いているからだ。
ひどく寂しく、ひどく悲しく、ひどく辛い顔をしたのだ。


「寂しいんだ」


喉の奥から絞り出された声は、悲鳴のようにも聞こえる。


「だから、お前がいることがずっとずっと、本当はきっと嬉しかったんだ。でも傷付けたくないから、俺はそんな嬉しい気持ちに素直にならないようにして、早く俺から離れてほしいとか思った。離れてほしくないけど、離れてほしい。矛盾してるけど本心だった。でも、本心は本心でも、どっちの気持ちが強いかなんてわかってる」


は泣きそうになっていた。
自分の好きな人の葛藤が痛いくらいわかってしまって、泣きそうだった。


「俺はお前に離れてほしくない。俺を好きでいてほしい」


頼む、と掠れた声がの耳を擽った。


「はい。離れません、好きでいます。大丈夫です」


泣きそうだった顔を必死で笑顔に変えてそう言うと、平和島静雄も笑った。
ニッと歯を覗かせた笑みは、子供っぽかった。


「ありがとな、えっと…。あー、名前、教えろよ」


そこでは自分の名前を名乗っていなかったことに気付いた。


です」

「はい」
か…」



自分を好きだと言ってくれた特別な人の名前を彼は噛み締める。
いないと思っていた、自分の全てを受け入れてくれる人、自分の孤独を癒してくれる人。

彼女の名前を繰り返す度、実感する。
こんな自分を好きになってくれて、離れないでいてくれる人が目の前にいた。


inserted by FC2 system