ベリルの美しい青




は天使でもなければ聖母でもない、普通の女だ。
彼女にはその自覚があり、身の程を弁えている。
だからこそ、は平和島静雄に何もアプローチなどしなかった。
好かれようとは思わないし、付き合いたいとも思わない。
ただ見ていたいだけだった。
けれど見ているうちに心境の変化が現れる。
それは平和島静雄の為になることをしたいという献身的なものだった。
結果、彼女は1日分のストーカーを放棄して、代わりに平和島静雄に安寧な1ヵ月を与えることを選択した。
その選択は、平和島静雄とそのストーカーであるという関係を変えていくことになる。


「そう、人生は選択だ」


折原臨也はケータイとパソコンを駆使して情報を操っている。
との約束を守るため、平和島静雄を目の敵にしている奴等の目線を余所に向けているのだ。


はシズちゃんにとって特別な女の子になった。きっとシズちゃんは君に恋をするだろう。見せてもらうよ。化物が普通の人間に恋をする愚かな姿を」


ケータイを閉じ、電源を落としたパソコンの真っ暗な画面に映る臨也の顔は、それはそれは愉快だった。





「本当に、1ヵ月は何もないのか?あいつのことだから嘘とかじゃねーのか?」
「大丈夫だと思います…。あの後、じゃあ約束は守るからね、ってわざわざ言いに来ましたし」
「そうか?まぁ、嘘だったら殺すだけだしな。どうせいつか殺すけどよ」
「が、がんばってください」
「おう」


2人が会話している場所は、昼休みの屋上ではなかった。
朝の通学路で、2人は肩を並べて歩いていた。
ストーカーをする者とされる者という関係にある2人の距離ではない。
普通の男女が普通に一緒に学校に向かっているようにしか見えない光景だ。


「あ、あの、平和島静雄君」
「ん?」
「やっぱり私、後ろから…」


は先程から何回も進言していることを繰り返す。
彼女はストーカーでありたいのだ。
しかし平和島静雄もまた、同じ言葉を繰り返した。


「いいから、一緒に行くんだよ。俺は普通にと一緒にいたい。ストーカーなんて普通しないだろーが」


の心情は複雑ではあったが、平和島静雄が望むのであればそうするしかない。
なので彼女はストーカーするのを観念し、とりあえず平和島静雄の隣で平和島静雄の横顔をじっと見つめながら歩いた。
平和島静雄はいつもよりも近い位置からの熱い視線に気恥ずかしく、それに気付いていないフリをする。
ふと、が道路の段差に気付かずに躓いた。
平和島静雄は反射的に手を伸ばし、その腕を掴んだ。
なるべく力をこめないように注意して。


「気を付けろよ」


とても繊細な硝子細工を触るかのような、優しい手に、の心拍数が急上昇したのは言うまでもなく、赤面したのも言うまでもなく、呼吸も忘れていることも言うまでもなかった。
そして平和島静雄にもそれは伝染し、その頬は薄らと赤くなった。
しかも、という女性の柔らかさを今まさに知った自分の手が、自分の意思通りに動かず、未だにの腕を掴んだままだ。
少しでも力を入れてしまえば簡単に折れてしまうであろう、細く柔らかくしなやかな腕を平和島静雄の手は包むように掴んでいる。


(離しがたいのか、俺は)


どうしてもその手を離せない平和島静雄はその結論に至った。
彼は彼女を、手放したくない。
その意思が明確に表れているのだ。


「あ、あの」
「ああ、悪い」


しかし、彼女の声に我に返った平和島静雄は、パッとその手を離した。
この手を離したら、彼女が離れるわけではないのだ。


「痛くねぇか?」
「だだだ、大丈夫です!あと、ありがとうございました!」


がばっと勢いよく下げられた頭に、そこまで深く感謝されるようなことではないと彼は思ったが、それは言葉にせず、緩やかに口元に笑みを作った。


「いや、どういたしまして」


あまり人に感謝されることのなかった彼にとって彼女の感謝は嬉しかったし、どういたしましてと言えることもまた嬉しかった。
以前にも、彼女にありがとうと言われたことはあるが、平和島静雄は今まさに他人と繋がれていることを実感し、幸福感を得ているのであった。





平和島静雄と一緒に登校したことを知ったの友人達は、付き合うことになったのか聞きたかったが聞けずにいた。
彼女達は日常を愛しており、学生生活を自分達の許容範囲で楽しめていればそれ良かったのだ。
そして平和島静雄は、彼女達にとって非日常であり許容範囲外の“化物”だった。
だから彼女達はに平和島静雄のことを聞くことはしない。
に付随する彼の話題を自然とスルーし、いつも通り過ごすのだった。
更に、は、彼女達がある意味意図的に、しかしある意味無意識のうちに、平和島静雄の話題を避けていることには気付いていなかったので、彼女達の友情には何の影響もなかった。
というのも、は平和島静雄を見つめたいだけだったので、友人達が平和島静雄についてどう思っていようがどうでも良かったのである。
クラスで友人と過ごすはストーカーモードをオフにしているというこも手伝っているのかもしれない。
とにかく、と平和島静雄の関係が少し変わっても、の友人関係などには何の影響も出なかった。





しかしながら、平和島静雄の方は少しばかり変化が出ていた。
という見るからに平凡な女生徒ととても普通に登校していた平和島静雄を見た来神高校の生徒達は、目を疑ったという。
女生徒の方はどうでもいい、ただ、あの平和島静雄が、まるで普通の男子高校生に見えたことに、生徒達は驚き、目を疑った。
平和島静雄は怒らせなければ無害なのだということは、皆気付いていたが、そのボーダーラインを見極める自信はないし、あの暴力を目にすれば怖がるしかなかった。
けれど、女生徒と登校した平和島静雄にいつも感じる恐怖を感じなかった。
そして「あれ?ひょっとして平和島静雄に話し掛けても案外平気だったりする…?」とちらほら思い始める者が出てきた。
まだまだ微かではあるが、平和島静雄の周りが変わろうとしていた。


「遂にストーカー女子と進展があったみたいだね、静雄」


そんな中、以前と変わらずに平和島静雄に接するのは岸谷新羅だった。


「友人として嬉しく思うよ、君が普通の子と普通に接するのはね」


ニコリと笑ったその顔からは、確かに嬉しいという感情が読み取れる。
しかし結局のところ、新羅は自身の愛する女性、セルティが静雄を気にかけていなければ、こんなふうには笑わなかっただろう。
セルティが憂いを抱かなくて済むから、ここまで嬉しそうに笑えるのだ。
勿論、平和島静雄の友人として喜びもしただろうが、ここまで綺麗には笑わないはずだ。


「しかしどういう心境の変化なんだい?今までの様子を見ていた限り、静雄は彼女に近付くことなんてないと思っていたんだけれど」
「てめぇには関係ないだろ」
「えー、教えてくれてもいいじゃないか。僕は君の友人なのだから」
「大した理由なんてねぇよ。ただ、一緒にいたいと思った。それだけだ」


恥ずかしげもなく恥ずかしい台詞を言ってのけた平和島静雄に、新羅は一瞬固まった。
それは愛の告白なのかと茶化すように聞くのは簡単だ。
けれどそれはしない。
彼が彼自身の感情や思いを整理できているとは思えなかったし、ここで突いて余計なことを引き起こすのは避けたかったからだ。
平和島静雄が他者とのコミュニケーションを不得手としていることは知っている。
だから新羅は何も言わず、「そっか」と言うだけだった。
あのストーカー女子との関わりが、彼にとってプラスになりますようにと、友人として祈りながら。





昼休み、と平和島静雄は朝ぶりに対面し、昼食を広げていた。
平和島静雄は改めてを観察する。


(普通、だよなぁ)


まさにそれしか感想は抱かなかった。
あまりにも普通過ぎて、逆にどう表現したらいいのかわからない。
ストーカー、ではあるが、自分の方をチラチラと見ては赤面して顔を逸らし、緊張からか箸を持つ手が震えているのは間違いなく自分に恋する女の子のものである。
本当に、普通の恋する女の子だ。
そこまで思い至った平和島静雄は、彼女が自分を好いていることが当たり前になってきていることに気が付いた。
彼女の好意に戸惑っていたのに、今では随分と慣れたものだ。





そう呼ぶと、彼女は裏返った声で「は、はいっ!」と返事をする。
弁当箱と箸が音を立てたが、ひっくり返ってはいないので大丈夫だろう。


は、いつどこで俺を好きになったんだ?」


それは朝から聞こう聞こうと思っていたことだ。
彼女が自分を好きになったということは、自分と彼女がどこかで接点があったということだ。
それはつまり、自分も彼女を好きになる機会にもなり得たのではないだろうか。
そんな考えが平和島静雄の頭の中を巡った。
だが、そんなのはついでに思ったことに過ぎない。
平和島静雄は、自分が好かれるような人間だとは信じられないでいた。
だからこそ、彼女は自分をどうして好きになったのか知りたかった。
ただ単純にそれだけ思っての発言だ。


「それは、言った方がいいですか?」


は平和島静雄の真剣な様子にドキドキしていた。
けれど、それはなるべく隠すように、平静を装う。
無論、隠しきれてはいないのだが。


「言いたくないのか?」
「ちょっとだけ、恥ずかしい理由なんです」
「…言いたくなければ、無理に言わなくてもいいけどよ、俺は、知りたい」


何かを切望するかのような目だった。
その目に、は答える他ない。
彼女は彼が好きだから、そんな目に逆らえるはずがなかった。


「……実は、」





その話はとても短かった。
平和島静雄は、脱力しかけたと言ってもいい。


「それだけの理由か?」


彼の言葉に、は照れ臭そうに笑った。


「人が人を好きになる理由なんて、そんなもんですよ」


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