くちづけが甘すぎる




は状況を把握できてはいなかった。
平和島静雄に告白されるなど想定の範囲外、いや、それ以上にありえないことだった。
太陽が実は月だったとか、そんな宇宙の法則が変わるくらいの出来事だ。
何も理解できず、思考も停止してしまったに、やっぱり迷惑だったかと平和島静雄は不安になる。


「…駄目か?」


不安げな目は、‘化物’と揶揄される平和島静雄に似つかわしくないものだった。
例えるなら子犬だろう。
そんなしおらしい平和島静雄の様子に、当然ながらはときめきを覚えたのだが、興奮している場合ではないことにすぐに気付き、なんとか頭の中を整理しようとするが、逆に思考は散らばっていく。
何か、何か言わなければという気持ちだけが先行して、現状を何も受け入れられなかった。


「駄目だとか、そういう次元ではないんです」


は、わかっていることだけを口にすることにした。
自分の中にある渦巻くありとあらゆる思いから、汲み取って形になった思いを順々に口にするしか、彼女にはできなかった。


「私、今ちょっと混乱してて」
「あ、別に急かしてるとかじゃねーんだ。悪い」
「いや、平和島静雄君が謝ることではなくて、私が、その」


が言葉を探すということをとても困難に感じたのは、このときが初めてだった。
いつだって普通の判断をして、普通に言葉を発していた彼女にとって、これはあまりに普通ではないことだった為だ。


「私、本当に今、どうして平和島静雄君がそんなことを言ったのかわからなくて」
「何がだよ」


の困惑こそ、平和島静雄にとって困惑だった。
彼女は自分を好きだと言ったし、自分も彼女を好きだと言ったのだからただ受け入れればいいだけじゃないか、というのが平和島静雄の思うところだ。
元々単純、よく言えば素直な平和島静雄の考えでは当然、そういう結果しか思い付かない。


「私なんかを、平和島静雄君が好きだと言う。それは有り得ないことなんです」


彼女は自分の平凡さ、矮小さ、全てを自己理解しているからこそ、絶対に信じられないのだ。
偉大な神という存在である平和島静雄が、自分だけを見つめ、好きだと告げたことは。
それこそ受胎告知以上のものだと彼女は感じていた。


「有り得なくないだろ。俺は‘化物’で、そんな俺を‘化物’なんかじゃなくて、猫の死骸を埋葬する優しい人間として見てくれたを好きになるのは当然だ。しかもお前は、俺の為にあのクソ虫に着いて行ったわけだし。そんな女に惚れない方がおかしい」


平和島静雄の言い分は最もなはずだった。
とても自然で、とても普通な恋の仕方だった。
平凡であるにとても馴染むものだったに違いない。
なのにはどうしても受け入れられずにいた。
極端な話、怖かったのだ。
神というあまりにも絶大な存在が、自分だけを見つめ、自分だけに好きだと言ったことが。
身に起きたことが彼女にとっては大き過ぎて、事態を飲み込むこと自体を拒否してしまいたくなるほどだった。
彼女は、ただ平和島静雄を見つめているだけで幸せだったし、それが極上のものだと信じて疑わなかったのだからしょうがない。
それ以上など、彼女には有り得なかった。
自分の常識にないものは怖いのだ。


「で、返事はどうなんだよ」


頬を薄らと赤らめてそっぽを向く平和島静雄は、ただの純朴な青年にしか見えなかった。
しかしその姿もやはり美しく神々しく、の目には映る。


(やっぱり神様なんだ)


何度だって思ってきたことを、彼女はまた繰り返し確認する。
それは自己暗示、いや、自分に対する洗脳のようなものだった。
そうしないと自分の土台が壊れそうだった。
何せ平和島静雄を追う彼女には、平和島静雄と付き合える可能性という前提は微塵も存在していなかったのだ。
だから彼女は、彼を盲目的に追い続けることができたし、彼の為に何かしようと思えた。
付き合いたいなどとは思わず、ただ普通に好きでいることが、彼女の幸せだった。
神様である平和島静雄と付き合うことは、の幸せにならないし、平和島静雄の幸せにもならないと彼女は思う。


「…ごめんなさい」


細い声で、彼女は交際を断る台詞を口にした。
その声は2人が並んで座る階段の下に転がり落ちる。
は俯くしかなかった。


「…俺のこと、好きなんだろ」
「好きです」
「恋だろ」
「恋です」
「俺も、恋だ」


彼女は平和島静雄の顔を見てはいなかったが、傷付いたような顔をしているのだろうと思えた。
拒絶は人を傷付けるものだし、平和島静雄ならそれが顕著だろうとわかっているからだ。


「やっぱり、俺と一緒だと」
「違います!」


いつの間に握っていたスカートに一層皺が寄った。
平和島静雄の目をしっかり見て、それは違うと伝えたいのに、どうしても目を見ることが出来ず、階下に視線を落とすことしかできない。


「平和島静雄君が怖いとかではないんです。ただ、平和島静雄君は勘違いをしているから」
「勘違い?」
「はい。私への好意を恋だと勘違いしています。私は絶対に平和島静雄君から離れないと言いました。その気持ちに嘘偽りはありませんし、絶対に違えたりはしません。でも、付き合うとか、そういうのは別です。平和島静雄君はひとりにしない私への感謝を恋と勘違いしているんですよ」


それだけが告白を断る理由ではなかったが、それだけで充分伝わるだろうとは判断した。
神の隣に立つ女神には決してなれない平凡な自分が、神である平和島静雄を幸せにすることなど不可能だという、卑下にも似た一種のエゴがあることを上手く伝えられる自信はなかった。


「勘違いなんて、お前の思い込みだろ。俺は絶対にが好きだ」


ぎり、と平和島静雄が拳を握った音が聞こえた。
怒っているのだ、自分の気持ちを否定されたことに。
平和島静雄の怒りを隣で感じても、は恐怖を感じなかった。
ちゃんと伝えなければと思うばかりだ。


「なら、平和島静雄君は私自身を知っているんですか?」


卑怯な言葉だとはわかっていたが、これくらいの言葉の方が伝わると彼女はわかっていた。
どんなにきつい言葉でも、彼の為になることだと思えば、案外すらすらと投げかけられる。
このまま自分を好きだと勘違いし続けることは、絶対に平和島静雄の為にはならないのだから。


「私の名前すら、つい先日知ったばかりですよね。なのになんで私のことが好きだって言えるんですか?」


彼女の突然の冷たい口調に、平和島静雄はまず驚き慄いた。
今までは平和島静雄を常に肯定し、褒めちぎってきたのだから無理もない。
そして彼女の口調にもだが、何よりその言葉の内容に息が詰まった。
名前を知っただけで満足していたが、のクラスだって知らないままなのだ。
なぜこんなにも彼女のことを知らないことに気付かなかったのかと思ったが、それは自分がから逃げていたからだとすぐに結論が出た。
これでは調子がいいどころか、勘違いと評されても仕方がないと、なんとなくはわかったが、そこで引くわけにはいかなかった。
なぜなら平和島静雄は、彼女に対しては常に真っ直ぐ向き合おうと決めているからだ。
自分の正直な気持ちを、どんなにかっこ悪くたって、どんなに綻びがあったって、偽ることはしたくなかった。


「確かにの言った通りだ。俺はお前のこと、何も知らない」


自分を好きになってくれたということしか知らない。


「でも好きだ」


階下に向けられていたの目が、平和島静雄を捉えて一度、瞬きをした。
その目には困惑も拒絶もなく、ただ平和島静雄の次の言葉を待つだけの、どこまでも冷静な色しか見当たらない。
目が合えば真っ赤になって慌てふためく彼女しか知らなかった為、それは珍しくどこか嬉しい発見だった。
そしてそんな彼女も好きだと思えた。


の言うことは、本当によくわかる。たったそれだけの理由ってやつで、は俺を好きになったし、俺もを好きにはなったけど、根本が違うもんな。は俺の異常な力を知った上で内面を知って俺自身を好きになってくれた。でも俺は、初めて自分を好きになってくれた他人なお前を好きになってる。それは自分を好きになってくれた人なら誰でもよくて、自身を好きになったわけではないのかもしれない。それがどんな人間であれ、俺は告白をしたのかもしれない。でも俺が今好きなのはだっていう事実はどうあっても変えられない」


平和島静雄は考える。
自分を好きになってくれた誰かを好きになる運命だったとしよう。
その誰かはだった。
それの何が悪いのか。
何も悪くない。
それはつまり、を好きになる運命だったということなのだから。


「平和島静雄君が正論を言っていることはわかります。でも、やっぱりそれは私のことが好きだという証明にはなりません。というか、絶対に勘違いです。そもそも私は付き合いたいと思えないんです。私は貴方のストーカーでありたいだけですから」


小さい子供に言い聞かす母親のようだと平和島静雄は思った。
自分と付き合いたくないとハッキリ言われていることはあまりショックではない。
それよりも自分の気持ちが勘違い扱いされていることが腹立たしかった。


「…お前のことを知っても尚お前のことが好きだったら、勘違いじゃないってことだよな」


正直になれた自分の気持ちを証明したい。
そんな真っ直ぐな思いがの心に突き刺さるように、平和島静雄は一段と真剣に彼女の目を真正面から見つめた。


「なら俺は、お前を知ることにする」


授業をする声が薄く聞こえてくる、屋上へ続く階段で平和島静雄は、人生で初めてその言葉を使った。


「今度の日曜、デートしよう」





その後、授業終了のチャイムと共にあちこちの教室からざわめきが漏れ出したと同時に平和島静雄は時間と場所だけを告げてその場から立ち去った。
階段に残されたのは口を半開きにしただけだった。


(待って)


それは平和島静雄に呼び掛けたわけではなかった。
けれど待ってほしいと彼女は思う。


(待って待って。どうなってるの)


もう事態は、の許容できる量を軽く地球1個分は超えていた。
まさしく天変地異である。
しかし彼女は何とか通常運転の頭にする。


(とりあえず、今日の放課後もストーカーしないと)


そう決めたのだが、昇降口で待ち伏せしているは、平和島静雄に一緒に帰るぞと言われてしまい、結局その日はストーカーなど出来なかった。
付き合う付き合わないという話はあまりに彼女にとっては大き過ぎた為否定せざるを得なかっただけで、何とか許容できる範囲の物事に関しては、平和島静雄を拒否することの方こそにとっては有り得ないのだ。





それから数日間、2人は登下校と昼食を共にする。
そこで平和島静雄が知ったことは、は2年4組、美化委員、帰宅部ということだった。
ちなみに平和島静雄は2年1組だ。
委員会は一応入ってはいるのだが来なくていいというような雰囲気を感じた為活動は一切行っていないので、もう何の委員会に入っていたか忘れている。
少なくとも美化委員ではないのは確かではあるが。
とにかく彼は彼女を観察しながらも、今までできなかった普通の世間話というものをした。
あの教師は教え方が下手だの、数学は難しいだの、そんな学生の間にはありふれた話題を、平和島静雄は初めて共有していた。


「こういう話、ぐらいとしかできない」


そんなことをぽつりと漏らした帰り道、は少し困ったみたいな顔をして笑った。


「それも勘違いですよ」
「どうだかな。お前が特別なだけかもしれない。でも、こればっかりは俺に勇気がないだけ、か」
「普通にすれば、大丈夫ですよ」


それが難しいんだろと平和島静雄は思ったが口には出さなかった。
実は、平和島静雄がという普通の女子生徒と一緒に登下校し普通に話しているのを見た来神高校の生徒達と平和島静雄の間にあった大きな壁は崩れかけていて、あとは切欠さえあれば、両者は馴染めそうなものなのだが、その切欠がないのが問題なだけだった。
どちらもまだ必要以上に臆病なままで、進展しない。
結局平和島静雄は臆病なのだ。
そんな平和島静雄の目に、は眩しく映る。
臆病者ではない彼女はキラキラと輝いて見える。
学校の人達も、街中の人達も、絡んでくる人達も、他人はほとんど色褪せていたのに、だけは色鮮やかに視界に映えるから、やっぱり彼女は自分にとって特別で、好きな人なのだと平和島静雄は確かめる。


「明後日はデートだな」


唐突過ぎる言葉に、は肩を跳ねさせた。


「休日の平和島静雄君をストーカーするんじゃ、駄目ですか?」
「駄目だ」
「はい…」


登下校もそうだが、どうやらはとにかくストーカーをしたいらしいと平和島静雄は少しずつを理解し始めていた。
それはそれで彼女と一緒にいることに変わりはないのかもしれないが、やはり隣で一緒にいろんなものを共有したいと思う。
できれば恋人という形で。
けれど嫌なものを無理強いしたくはなかった。
だから付き合ってほしいとはもうあまり思わないようにしている。
平和島静雄は、ただこの恋する気持ちをちゃんと伝えたいだけだ。
勘違いではないと言いたいだけだった。





日曜の朝、洗面所で何やらそわそわしている兄を見掛けた平和島幽はどうしたんだろうと思い、そのまま「どうしたの」と話し掛けた。
ビクッと驚いた様子を見せた兄・平和島静雄は、何だか照れているようで、幽は首を傾げる。


「兄さん?」


少し何かを躊躇った後、平和島静雄は恥ずかしげに小さな声で弟に問うのだった。


「俺、変な格好してねぇか?」


弟の幽は、異常な力を持つ兄を怖いと思ったことはなかった。
兄の本来の優しさを知っているからだ。
周りはそれを知ろうともせず、兄を遠ざける。
兄もまた、周りを拒絶していた。
けれど今のこの様子は、恐らくデートにでも行くのだろう。
あの兄が、他人と親しくなろうとして、必要以上に容姿を気にしている。
そんな兄に、幽は思わず笑みが零れた。


「かっこいいよ、兄さん」


そう言うと嬉しそうに頬を緩める、とても感情の豊かな兄に心の中で告げたのだった。
がんばれ、と。





待ち合わせ場所は、猫を弔った公園だった。
緊張と高揚で浮き足立ちながら、平和島静雄は待ち合わせ時間5分前に公園に着いたのだが、既には公園の中にいた。
は一輪の花を、墓とも言えない墓に供え、手を合わせる。
その光景に、どきまぎしていた気持ちは緩やかに解かれ、胸の奥に温かいものを感じる。
平和島静雄はそっと彼女の隣に膝を付き、一緒に手を合わせた。


「この花、どうしたんだ?」
「家の庭に咲いてるんです。名前は知らないんですけど、可愛い花ですよね」


紫色の花弁は可愛いというより、綺麗という表現の方が合っているのではないかと平和島静雄は思ったが、自分に笑顔を見せるに、彼は思わず肯定していた。


「ああ、可愛い」


花が、ではなく、が。
隠された主語を感じ取ったのか、はたまた彼の不意打ちの優しい笑みにか、は頬を赤らめて俯くのであった。





2人が一緒に電車に乗り、やってきたのは新宿の映画館だ。
大きな映画館ではなく、どこかひっそりとしていて、マイナーだったり昔の映画を繰り返し上映している、小さな映画館だ。
なぜそんな映画館に来たのかというと、それは先日、2人で寄ったコンビニでの出来事に遡る。
平和島静雄がそこで手に取ったのはデート先の特集をしていた雑誌で、初デートの場所1位は映画館という情報を入手したのだ。
そこで彼はに「映画館に行く」と告げ、彼女は彼女で、その言葉で思い出したのだろう。
「そういえば新宿にある小さな映画館の割引券を持っています」と言い、ならそこにしようとトントン拍子でデート先が決まったのである。
その小さな映画館は、高校生のデート先にしては、少々渋く中々にロマンチックな場所だった。
映画館ではCMで見るようなハリウッドの大作映画などは上映していない。
少し古いフランス映画を上映しているようだった。


「この映画しかやってないみたいですね」


色褪せたポスターに日本語などはなく、恐らくはフランス語なのだろう題名は読めない。
ただ、一目見ただけでラブロマンス物だとはわかった。
嫌いなわけではなく少し苦手な分野だと、平和島静雄は一瞬違う映画館、それこそアクション大作でもやっている大きな映画館に行く選択肢を思い浮かべたが、がポスターを数秒眺めて呟いた。


「きっと素敵な映画でしょうね」


その一言とその横顔だけで、平和島静雄の他の映画館に行くという考えはすっかり消え去ってしまう。
彼女が素敵だと言ったのから、きっと素敵なのだろう。
そう思えるくらい、平和島静雄はに惚れていたし、信頼していた。
感性を委ねられる程、彼の彼女への好意は純粋なのだ。





受付のお爺さんに珍しいものを見た、とでも言わんばかりの目で見られながらチケットを格安で購入し、映画館の中に入る。
あと20分で上映するという館内には、彼と彼女の他に3人が席に着いて思い思いに過ごしていた。
あるご婦人は本を読み、ある青年はケータイを弄り、あるおじさんは新聞を読んでいる。
2人はひっそりと静かに、並んで座席に腰掛けた。
20分間、昼休みや登下校とさほど変わらない内容の世間話をこそこそと続ける間に、客は1人増えていた。
そして、ブザー音と共に劇場内の電気は落とされ、スクリーンの幕が上がった。





映画は孤独な青年が初めて人に恋をする話だった。
どうやって手を繋げばいいのかわからない男と、男にひたすら手を差し伸べる女のラブロマンス。
映画のラストでやっと手を繋いだ2人に、橙色の温かい光が降り注ぐ。
そして2人はキスをした。
静寂で、神聖で、幸福で、繊細で、優美で、独特で、純粋で。
そんなくちづけ。


(俺もいつか、こんなふうに誰かと愛を共有できる日が、)


今まで諦めていたはずの、そんな希望を抱いた時、平和島静雄の頭の中にはとくちづけを交わす自分がいた。
理想だった。
暴力を纏わない自分を見つけてくれた彼女とそうなって、幸せになりたい。
映画の中の2人のように、自分が彼女を幸せにして、彼女が自分を幸せにする。
そんな関係になりたいのだ。
でもそれはきっと有り得ない。
流れるエンドロールに、この映画の物語はこれで終わりなのだと告げられる。
映画ならばこれで終わりだろうけれど、現実は甘くないのだ。
もしも自分と彼女が付き合えたとしても、ハッピーエンドでは終われない。
この1ヵ月はいいが、1ヵ月後はまた喧嘩の日々に戻る。
甘さなど微塵も存在しない、暴力を振るう日々が待っている。
その日々の中に、彼女という大切な人を巻き込んでいいはずがない。
だから、1ヵ月後はもう一緒にはいないだろう。
いてはいけないのだ。
一緒にいたらきっと傷付けてしまうから。


(キスをして終わりならどんなにいいだろう)


異国の歌がエンドロールに合わせて切なく流れる。
平和島静雄は、そっと目を閉じた。
隣に座る彼女を傷付けたくはない、ただ一緒にいて、幸せな笑顔を向けてほしいのだと願いながら。
そして、そんなふうに思えるくらい他人を好きになれた自分を幸せだと思う。
そう、平和島静雄は幸せなのだ。
それは間違いなくという平凡で普通でありながらストーカーという変態女のおかげだった。
他人に幸せにしてもらえる感覚を平和島静雄は噛み締める。
胸には、映画のエンドロールで流れる異国の歌が染みた。
切なくてどこか甘い歌。


「…素敵な映画でしたね」


エンドロールが終わり、はひとり言のように囁いた。
の瞳に水の膜が若干揺れているのを見た平和島静雄は、自分の抱いた情景をもう一度思い描く。
くちづけを交わす自分と彼女の光景を。


「…ああ、見て良かった」


孤独な青年は間違いなく自分だったし、優しい女性は間違いなく彼女だったのだ。
そんな2人が幸せな結末を迎えた映画を自分は忘れないだろうと平和島静雄は思う。
映画の2人と目の前にいる彼女は、強烈な憧れなのだから。
と映画みたいなくちづけを交わせたら、平和島静雄はきっと幸せだ。
化物としてでもなく、神様としてでもなく、ひとりのただの男として、好きな女と結ばれることは幸せ以外の何物でもない。
存在そのものが暴力であったはずの平和島静雄は、という女の存在によって、ただの男と化していた。
好きな女の子と幸せなくちづけをしたいと、甘い甘い夢を抱く、普通の男の子なのだ。


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