4℃の恋




映画館を出た2人は、新宿駅に向かっていた。
新宿は高校生2人で遊ぶには物足りないところなのだ。
来神高校があり、来神の生徒にとっては庭のような池袋の町に戻るのである。
平和島静雄は隣を歩くの手と自分の手が触れ合わずに揺れる、その距離を確かめた。
平和島静雄は、映画の孤独な青年が手を繋ぎたい気持ちがよくわかったし、繋ぎ方がわからないのもよくわかった。
そして女の差し出す手を掴むことも中々できない気持ちは痛いほどよくわかる。
が自分に手を差し出すことはないだろうが、もしも差し出されたら、自分はその手を掴めない。
でも、今なら自分は、手を伸ばすことくらいはできるような気がした。





池袋の街を歩いていて、平和島静雄が感じたことは、安らぎだった。
誰も因縁をつけてこないし、誰も殴らなくて済む日々の心地良さを噛み締める。
街の喧騒が肌の上を滑って行くと安心すら覚える。
そんな‘普通’を与えてくれたのは、間違いなくだったし、そんな彼女の愛が嬉しかった。
そしてやっと素直に受け入れて、答えたというのに、次は彼女が自分の愛を拒否し始めたのだ。
しかも全くもってよくわからない理由で。
神がどうとか、知らないとか何とか。
好きであることに何も変わりはないというのに、理由をつけてそれを否定したがるの意図がよくわからない。
でもを説得して、自分が本当に好きなのだと伝えたい平和島静雄は、の様子を観察した。
その目はいつものストーカー行為をするの目に少し似ていた。


「…は爪の形が綺麗だな」


池袋のとあるカフェで席につき、メニューを決めているとき、平和島静雄が放った言葉はそれだった。


「え、えと?」


唐突過ぎる褒め言葉に当然ながら困惑し、動揺するのはだ。


が言ったんだろ。俺はお前の事何も知らないって。だから、知ろうと思って今見てたんだけどよ、は爪の形が綺麗だってことを知った」


平和島静雄からの視線に気付いていないわけではなかったが、で、彼とのデートに緊張していることもあり、その視線を探ることもできなかったため、彼が観察していたということに妙にくすぐったいような、恥ずかしいような、隠れたいような気持ちになった。
なのでとりあえずサッと爪を隠すように手を引いたのであった。


「そういうふうに、照れて隠したりするところも可愛いって、今知れた」


からかっているかのような言葉だったが、平和島静雄は至って真面目に発言しているようで、じっと無垢な瞳を彼女に向けていた。
褒め殺しのような状況に陥ったは、もうどうしたらいいのかわからず、「メニュー、決めましょう!」と無理矢理その視線から逃れようと声を荒げたのだが、その照れ隠しはまたしても平和島静雄に可愛いと思われたようで、小さく彼を笑わす結果となった。


「本当に、って可愛いな。…好きだ」


なぜかとても満足気に、告白の言葉を置いて、彼はメニュー表へと視線を移した。
そんな彼の様子に、は泣きそうになった。


(こんなに美しい貴方が、どうしてこんな私に好きだなんて言ってしまうんですか)


にとって、平和島静雄は神様だ。
神様は絶対的な存在として、彼女の世界の中心にいる。
存在自体が、の幸福であり感動だ。
そして神様と信仰者は決して対等な関係にはなく、一方的であるべきなのだ。
神様である平和島静雄はその存在と美しさを持って、信仰者であるの心を満たす。
は平和島静雄のためにできる限りのことをして、何かを貢ぐ。
そこにあるのは、の自己満足という一方性しかない。
それが理想であり、あるべき姿なのだ。
なのに平和島静雄は、対等な関係を望んでいる。
それはいけないことだった。
そもそもその望みは間違いなのだ。
恋をしたことがないから、恋だと思い込んでしまっている、何も知らない神様の可愛い勘違い。
しかしにとって、その勘違いは可愛いだけではなく、自分の中にある平和島静雄という神様への信仰を失うことに繋がるものだ。
神様の喪失は、世界の終わり。
平和島静雄の好意が、は怖くて仕方がない。
他人から見ればただの恋愛感情だけれど、にとっては天変地異を巻き起こす、途方もなく大きな黒い黒い不安。
は、唇をそっと噛んでメニュー表を眺めるのだった。





昼食にパスタ、デザートにケーキを頼んだ2人は、最近しているような世間話を始めた。
と言っても、平和島静雄によるインタビューのようであった。
そしてパスタが運ばれる頃、平和島静雄は少年のようなあどけない笑顔を見せた。


のこと、いっぱい知れて嬉しい」


間違っている、勘違いしている好意だというのに、精一杯拒否しているというのに、やはりの顔は赤くなる。
どんな理屈があったとしても、平和島静雄の美しさは何ひとつ変わらないのだから。
笑顔を向けられれば、全て忘れてただ見惚れてしまう。
だって、好きだもの。





平和島静雄がふと思ったことは、自分がまるでストーカーのようであるということだった。
自分を見ていたのように、自分もを見ていると気付いたのだ。
たとえば、最近は彼女の下校を待ち伏せて声を掛けて一緒に帰っているのだが、待ち伏せるあたり立派なストーカー行為である。


(いや、俺はストーカーなんかじゃねぇ)


と、否定はしてみても、彼女のストーカーとしての行動に似通った行動を取っていることは確かだ。
今だって、チラチラと彼女の様子を観察してしまう。
そして彼女の一挙一動に目を奪われ、心を揺り動かされる。
これが恋なのか、これがが自分に抱いた感情なのか、とゆっくりと自分の胸の奥を探る。
あたたかい球体が胸の奥で息づいているような気がした。





昼食を終え、池袋でウインドウショッピングを楽しんだ後、2人は朝待ち合わせした公園に戻っていた。
平和島静雄は先日の告白を思い出す。
彼女自身を好きになったわけではないと、彼女は言った。
でもそれは違う。
だって、自分をずっと見ていてくれたのは間違いなく彼女自身だった。
そして自分が好きなのはというたったひとりの女なのだということも事実だ。
屁理屈こねられるのはもうたくさんだ、と平和島静雄は思ったが、彼女を納得させられるだけの語彙が足りない自覚もあった。
ただ好きだと言えばいいだけじゃないのだ。
そうはわかっていても、自分の言葉の足りなさは充分わかっている。
だから平和島静雄は、映画の中の男優と同じように、その言葉をもう1度口にする。


「俺はお前が好きだ」


偶然か否か、映画と同じように2人の間には夕日が差し込んだ。
けれどは映画の中の女優と同じように笑ってはくれなかった。
幸せという言葉など当て嵌まりそうもない、わけのわからない、何とも言えない表情をして、ゆっくりとその顔を崩していく。


「なんで、そんなこと言ってしまうんですか…」


映画の中で、あの2人はキスをしていた。
平和島静雄は映画を真似てはみたものの、キスなんてできそうにない。
目の前で好きな女に、こうも苦しそうに泣かれては。


「なんで泣くんだよ」


泣きたいのは寧ろこっちの方だ、と平和島静雄は思う。
本当に好きなのに、受け入れてもらえないし、更にはどういうわけか好きな女を泣かせてしまっているのだ。


はどうして俺の言葉を信じてくれないんだ。お前はこんな俺を好きになってくれたのに」
「平和島静雄君は、勘違いをしてるんです」
「違う。今日デートしてわかった。お前のことを知って、やっぱり好きだって確かめられた。だから好きだ」


は首を横に何回も振る。
その必死な拒絶に、平和島静雄の心は折れそうだった。


「平和島静雄君は、神様なんですよ…」


はらはらと涙が零れる瞳は、平和島静雄の胸の奥にある球体を熱くした。


「俺は神様なんかじゃねぇ」


フッと沸いたのは怒りだった。
基本的によく怒る彼だったが、彼女に対してだけは怒りを抱いたことはなかった。
今、初めて彼は彼女に怒っていた。


「よく見ろ、。お前はストーカーなんだろ?ならわかるはずだ」


夕日にキラキラと金髪が光る。
のぼやけた視界の中で、平和島静雄は凛々しく神々しく、圧倒的な存在感を放っていた。
彼は手を胸にやり、自分を主張する。


「俺は、という1人の女に恋をした、ただの男だ」


化物でもなく、神様でもなく、人間の男として、平和島静雄はに恋をしていた。
その宣誓に、最早彼女は何も言えない。


「1ヵ月でいいんだ、俺の彼女になってほしい。そして、俺を幸せにしてくれ。この1ヵ月の幸福を共有する相手になってくれ。の傍にいたいんだ」


は心に決めていたことがある。
平和島静雄の為になることをする、ということだ。
この1ヵ月を平和島静雄の彼女として過ごすことを平和島静雄は望んでいる。
彼の望みなら叶えるしかないだろう、それが神を殺すことになっても。


「平和島静雄君は、神様じゃないんですね」


本当は知っていた。
神様なんていないことに。


「化物、かもしれないけどな」


平凡で普通な自分にストーカーという発想をさせてしまうくらい、好きになった人を神様だと思い込んで、片思いを盲目的で幸せな形に押し固めただけのことだった。


「化物なんかじゃ、ありませんよ」


大抵の片思いというのは辛いものだから、歪めてしまえばもう辛くないだなんて、陳腐な考えが、結果的に平和島静雄や自分自身を苦しめることになってしまった。
は、口の中でごめんなさいと謝罪する。
平和島静雄と逃げ道に使った神様に対しての謝罪だった。
そして、は乱暴に涙を拭って、やはり美しい平和島静雄にその顔を向けた。


「平和島静雄君は、最高にかっこよくて美しくて、とっても素敵な、私が好きになった人間の男の子です」


もうここに、の神様はいなかった。





そして1ヵ月はあっという間に過ぎていく。
恋人同士となった2人は、手も繋がず、キスもせず、ただ空いている時間を一緒に過ごした。
そんなある日、屋上で昼食を終え、のんびりとしていると、どこからかバレーボールではしゃいでいる声が聞こえた。
そこに交じるように、小さな声で平和島静雄は言う。


「もうすぐで、1ヵ月だな」


は神様を卒業してはいたが、平和島静雄のかっこよさに参っていることは何も変わらず、やはりその横顔に見惚れていた。
しかし、彼の一言に目を伏せた。
この1ヵ月は素晴らしい日々だったと言える。
平和島静雄は、暴力を振るうことのない日常を堪能していたし、少しずつクラスの人達とも馴染んできていた。
もまた、平和島静雄と共に楽しく過ごせる日々は夢心地だった。
しかも、ここ最近、あの異常な力がすっかり鳴りを潜めたためか、という平凡少女と一緒にいるためか、平和島静雄に対する学校の人達の心象も大分丸くなったようで、の友達も「彼氏とどうなのよ」と茶化す始末である。
全てがいい方向に行っている。
けれども、折原臨也の定めた安穏な1ヵ月はもうすぐ終わろうとしていた。


「…私達は別れるんですか?」


の寂しげな声は、花が散る様子を思い起こさせた。


「……そうだな。俺は、守れる自信がないから」


暴れる力をコントロールして、を喧嘩に巻き込まないことができるとは思えなかった。
という愛しい彼女のことを思えば、もう別れて離れなければならない。
一緒に登下校も、デートも、何もかもをなくさないといけないのだ。


「別れなきゃ、いけねーよな」


そんな独り言を漏らして見やったの俯いた顔は、髪に隠れていた。
手は震えていた。


「別れなきゃいけないのに、俺は、別れようって言えない」


ゆっくりと上がる彼女の顔。
そっと這う自分の手。
2人を取り巻く空気がやけに冷たく感じた。


「この1ヵ月で俺はを、大分好きになったみたいだ。…別れようなんて、言えるかよ」


平和島静雄との指先が触れ合う。
指が1本1本絡まり、体温が溶けた。
絡まった指は、彷徨うように動き、解け、お互いの手を包んでいた。


「まだ一緒にいたいんだ」


私も、と彼女が言ったか言わないか、次の瞬間には、もう2人の唇は重なっていた。
は突然のことに驚いたが、静かに彼を受け入れていた。
少しして唇は離れ、至近距離でお互いを見つめると、どちらも苦しそうな顔をしていた。


「キスをして終わりなら、良かったのにな」


無理矢理作られた平和島静雄の笑顔は、の心を抉るだけだった。
彼女は彼を守るように、彼の身体を抱き締める。


「私なら、平気です。だから一緒にいましょう」
…」


平和島静雄の腕が少し迷って、力を入れないように注意しながら彼女の背に回された時だった。


「夢を見るなよ、化物」


折原臨也の声が、残酷にその空間を引き裂いた。


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