どんな君でも好きだよ




目を開けた時、どこにいるのか全くわからなかったけれど、そこが保健室なのだとわかったのは、多分独特の匂いのおかげだろう。
は保健室のベッドで目を覚まし、上下左右に視線を彷徨わせていた。
自分がなぜここにいるのだろうか、と少し考え、思い至ったのは屋上での出来事だった。





「夢を見るなよ、化物」


その声と共に現れたのは、折原臨也。
学ランを風に靡かせ、黒髪が乱れる姿は不吉を届ける烏のようだ。


「…1ヵ月経ってねえだろが、クソ虫ぃ」


グッ、と平和島静雄はの腕を引き、背中の後ろに隠す。


「うん、だから別に何をしようってわけでもないさ。俺、約束は守るからさ?」
「ならどっかに消えろ。てめぇがいるだけで空気が淀む」
「学校で不純異性交遊をしてる君に言われたくないなぁ」


その言葉に、先程思わずキスをしてしまったことを思い出し、平和島静雄は狼狽えた。
衝動に任せた行為であったが、彼女の唇に引き寄せられたことはとても自然な成り行きだったように感じる。
それはともかく、キスをしたということより何より見られていたことが彼の羞恥心を掻き立てていた。
そのあまりに初心で健全な、普通の反応に臨也は笑みを零す。
勿論、柔らかい笑みなどでない。
嘲笑という言葉が1番合うような笑みではあったが、それにしては残忍が過ぎる、そんな笑みだった。


「何、普通の恋なんかしちゃってるの?シズちゃーん。屋上でキスとかどこの少女漫画ですか?反吐が出るよ。化物が普通の恋とか、アンバランスで不安定で気持ち悪い」


臨也の敵意に、平和島静雄の敵意も丸出しになっていく。
先程まで照れていた男子高校生の姿は、今や獣を思わせる獰猛な化物の姿になっていた。


「ごちゃごちゃうるせーな…。てめぇはやっぱり殺す」


臨也のことは元から気に入らない、殺したいと思っていたが、彼女との関係を貶された今、その怒りを爆発させることしかもう頭になかった。
平和島静雄にとっては大切な存在で、彼女との関係は宝物だ。
だから行動には移していないとはいえ、いつか必ずこれを壊すであろう目の前の敵を粉砕したいと思うのは当然であり、その思いが今までで最も強くなったのもやはり当然だった。


「ほら。今まさに、シズちゃん自らがこの安寧とした日常を壊そうとしている。君に普通なんて無理なんだよ」
「てめぇのせいだろうが!!」


臨也に言われなくても、自分が普通でないことと、それ故に普通の日常など送れるはずのないことはわかっていた。
でも、と一緒ならできるような気がしていた。
彼女は自分が求めるものを全て持っている人だったから。
彼女と離れたくないと願った。
彼女もそれを望んでくれた。
一緒にいることを決意できそうなのだ。
だからそれを邪魔する臨也は殺そう、これからずっと自分と彼女を壊そうと画策するであろう臨也は殺そう。
一瞬だけ冷静を取り戻した頭の中でそう思ったとき、平和島静雄は気付いた。
自分の暴力が、を守ろうとしていることに。
この事態を招いたのは自身の異常な力に起因しているところは大きいが、何かを守れる力だと思えたことは、それを霞ませた。
多分それが間違いだった。
いつだってその暴力は平和島静雄にとって最悪な結果に繋がる、いわば災厄であるというのに。
身に染みてわかっていたことなのに。


「ははっ、本当に馬鹿だなぁ、シズちゃんは」


大きく繰り出された平和島静雄の拳は、ひらりと避けた臨也には当たらず、屋上に設置されているベンチを真っ二つにした。
平和島静雄は目標を見失うことなく、再び臨也へと殴り掛かる。
今度は花壇を壊した。
煉瓦が崩れ、土が流れて花が沈む。
そして、臨也がの腕を掴み、引きずるように立ち上がらせた。
思わず動きが止まる平和島静雄だったが、次の瞬間には息を飲んだ。
彼女はぐったりとしており、気を失っているのは明らかだ。
平和島静雄の時間だけが止まったかのようだった。
しかし彼は動きを一切していないとはいえ、その体内はしっちゃかめっちゃかだった。
血流は早く、心音も激しい。
胃がキューっと締め付けられ、混乱する頭は脳味噌が熱くなっているようだった。
ニヤッと笑ったのは、臨也だ。


「シズちゃんは気付かなかったみたいだけど、さっきシズちゃんが壊したベンチの破片が飛んだんだよ。それがさんの頭に直撃。あーあ、大変だ。命に別状はないみたいだけど、頭を打ったら絶対に病院に行かないといけないんだね。何かあるといけないから。あ、シズちゃんは車に撥ねられても平気だから、そんなことも知らないんじゃないかって思って、俺は今親切にアドバイスをしたわけだけど。どーする?俺のこと、まだ殴ろうとする?」


この時、はまだ完全に気を失ったわけではなかった。
ぼんやりと、薄暗い視界の中で、平和島静雄が一歩引いたのがわかった。
そして彼女は言ったのだ。
声にはならなかったけれど、確かに彼女は言った。
ごめんなさい、と。





「……ごめん、なさい」


保健室のベッドの中で、今度こそ声にしたその謝罪は、震えていた。
あの時、彼女は平和島静雄に見惚れていた。
怒りに身を任せた姿は美しかった。
思わず見惚れて、その場から避難するということを怠ったのだ。
誰も傷付けたくないという彼の気持ちを知っていたにも関わらず。


「ごめんなさい」


平和島静雄は、今確実に傷付き自己嫌悪に陥っている。
彼をずっと見ていた彼女には、ここにはいない彼の様子がすぐにわかった。
反省、懺悔、罪悪といった感情が彼女を襲う。
は愛に満ちた目で平和島静雄を見つめ、全てを受け入れてきた。
しかし今、その目にあるのは果てしない悲しみだ。
平和島静雄の為になることをしようと決めていたのに、それを破ったのである。
彼女は悟っていた。
もう彼の傍にはいられないことを。





時間は少し前の屋上、が完全に気を失った時に遡る。
臨也はを横たえ、悠然とした足取りで平和島静雄の脇を抜け、屋上から出て行った。
平和島静雄は擦れ違う臨也に目もくれず、倒れるを茫然と眺め、後悔以上の苦い感情が心を締め付ける中、彼女をそっと抱きかかえて保健室へと運んだのであった。
保険医に頭を打ったことだけを伝えると、早退して病院に行かせると言われたので、彼女の鞄を取りに4組へと向かったわけだが、ベッドに横たわる彼女を見るのが辛く、鞄を持ったはいいけれど保健室に戻ることが戸惑われた。
絶対に傷付けたくないと願った人を傷付けたという事実から目を逸らしたかったのだ。
馬鹿みたいに時間をかけて戻った保健室に保険医はおらず、クリーム色のカーテンがしめられた一角が目に入った。
手に持ったの鞄をそこに投げ捨てて逃げ出したい衝動に駆られた。
なぜなら、カーテンを開けた先できっと彼女は自分を責めないからだ。
自分のことをかつて神様とまで呼んだ彼女が、自分を糾弾することなど無いことを平和島静雄は理解していた。
いっそ責めてくれた方が楽なのに、とまで思うけれど、決して自分を化物だと呼ばない彼女が愛しいのもまた事実だった。
傷を負わせた彼女から逃げ出したいのに、自分を受け入れてくれる彼女に縋りたくもある。
そんな矛盾が、平和島静雄を躊躇させていた。
鞄を置いて顔を見せずに去るべきか否か。
数秒間悩んで出した結論は、重い足を引きずって、カーテン越しに声をかけることだった。





クリーム色のカーテンに自分の影が映る。
カーテンの奥に影は見えなかったが、布の擦れる音でが体を起こしたのがわかった。


「…はい」


覇気のない声だった。
姿は見えないはずなのに、弱々しい彼女の姿を見た気がした。
告げたい言葉はたくさんあったが、いざとなるとそれらは出てこない。
謝罪の言葉も贖罪の言葉も、確かにあるのにどうしてか形にはならず、単調に呼吸を繰り返すだけだった。


「私は好きですよ」


カーテンの奥から聞こえた声に、呼吸が乱れた。


「私は気にしてないです」


それは紛れもなく平和島静雄が欲しい言葉だった。
暴力に怯えず、自分自身を受け入れ愛してくれるというのだ。
自分の孤独が満たされていくのを平和島静雄は感じていた。
胸の中が温かい水で満ちていくようだった。


「でも俺は、やっぱり傷付けることしかできないんだと思う」


たとえが許したとしても、平和島静雄には許せないことなのだ。
温かい水で満ちた部分を胸の奥へと押し込めて、彼は言う。


「もう二度と、お前を傷付けたくないから、だから、」


彼と彼女は、カーテン越しに見えないはずの相手を見つめていた。
クリーム色のカーテンは結局、2人の間にある越えられない壁だった。
異常と普通、化物と人間、神様と信者、そういった一緒にいることのできない区分が、カーテンによって引かれていた。
この一ヵ月はなかったはずのそれなのに、今は明確に存在していた。
どちらかが歩み寄ることをしなくなったら、一瞬で築かれてしまうものなのだ。


「別れよう、。やっぱり俺はお前の傍にいられない」


平和島静雄は恐ろしい程穏やかな顔をしていた。
全てを諦めたからこそ自然となった表情だった。


「今まで本当にありがとう」


は何も言わない。
平和島静雄にはそれがわかっていたような気がした。
彼女の鞄を空いている机に置いて、保健室を出る。
結局カーテンを開けることはなかった。
開けるべきではないのだと結論付けたからだ。
平和島静雄が最後に真正面から見た彼女の姿は、保健室に運んだ時の、自分のせいで傷付き気を失った彼女だったし、そうであるべきなのだ。
廊下を進む彼にとって、はもうストーカー女でも恋人でもなかった。
戒めだった。





その日の夜、平和島静雄は彼女とのファーストキスの思い出に酔いしれることなどできず、布団の中で自分の手を見つめていた。
なぜ自分の暴力を、大切な女を守れる力だと過信してしまったのだろうか。
いつだって誰かを傷付けることしかできないのに。
そういった後悔を抱えながら、平和島静雄は布団の中で丸くなった。
と離れる悲しさが漏れないように。
との幸せで穏やかだった甘い思い出が霧散しないように。
そんなふうに、何かを抱えて守るようだった。





学校を早退し、病院で検査を受けたは、頭に軽い打撲と診断され、こぶができていた他に異常はなかった。
転んで頭を打ったと教師と親には説明しており、平和島静雄や折原臨也のことは伏せておいた。
特別庇っているという意識はにはなかった。
実際自分が転んだようなものだと思っていたのだ。
けれどがどんなに自分の不注意だと思っていても、平和島静雄にとってはそうじゃない。
彼の別れの言葉が何よりの証拠だ。
カーテンに何度も手を伸ばしたけど、それを開けて彼に抱きつき「行かないで」と告げることは彼女にはできなかった。
ひっそりと静かに涙を流すだけだった。
元ストーカーでもあるには、充分過ぎる程わかっていたのだ。
平和島静雄が自分を絶対に拒絶することが。
あの力がなくならない限り、二度と彼は彼女を受け入れないし、彼女に近付かない。
平和島静雄はに出会う以前、もしくは出会った頃の他人をひたすらに拒絶していた時に戻ってしまったのだ。
いや、それ以上になってしまった。
やっと一緒にいることのできた人を、最も危惧していた暴力で傷付けてしまったのだから。
は自分が彼にとって“他人を拒絶する理由”になったことを理解していた。
布団の中で平和島静雄と同じように丸くなるの涙は、止まることなく流れている。
平和島静雄を幸せにしたかった。
そんな願いが、涙と一緒に流れていくようだった。
もう彼の幸せも自分の幸せも、どこにも見当たらない。
絶望にも似た虚しさ、悲しさが緩く彼女を取り巻き離さない。
は虚しさや悲しさが渦巻く海に沈むように、目を閉じた。
目蓋の裏では平和島静雄がはにかんでいた。





「最近あの子といないね。喧嘩でもしたの?」


数日後の学校、放課後に平和島静雄に話し掛けたのは岸谷新羅だった。
平和島静雄は昼休み中に学校に押しかけてきた不良を相手に大暴れした為、ブレザーの袖が少し破れており、どこか殺伐とした雰囲気を纏っていた。


「…別れた」


新羅にはそれだけ言い残し、さっさと帰る平和島静雄の背中を黙って見送る新羅は寂しそうな目をしていた。


「別れ、ちゃったんだ」


彼女と一緒にいる平和島静雄を何度か見かけた新羅は、その度にどこか安心していた。
平和島静雄が孤独ではないということや、好きな子と一緒にいることが嬉しかったし、祝福さえしていた。
それが唐突に失われたのだ。
もどかしく、切ない気持ちに襲われるのは平和島静雄の友達として当然のことなのだ。


「セルティも悲しむだろうな」


そう呟いた時だった。
岸谷新羅の目にあるものが飛び込んできた。
そして新羅は、――――――。





心にすっぽりと穴ができたかのようだった。
のいない日々は平和島静雄にとって寂寥感の募る時間でしかなかった。
いつもは煩わしいだけの不良達は、それを一瞬でも薄くさせてくれるので初めて感謝のような気持ちを抱いたが、やはり不愉快であることに変わりはなかった。
喧嘩なんてしない、愛しい人と穏やかに過ごせた1ヵ月はまさに夢のようだ。
というか、夢そのものだ。
かつて見た夢、そして今も夢見ている光景。
いつかまた…、そんなことを思いながら、平和島静雄は拳を握る。
自身の暴力の前では、その夢はいとも簡単に粉砕されてしまうとわかっているし、充分思い知らされた。
もう自分は孤独でいいのだと、もう何度もした諦めを再び抱いた時だった。
目の前に、がいた。





住宅街の真ん中で、向き合った先の平和島静雄は愁いを帯びていた。
そんな平和島静雄も素敵だと思いながら、はそっと微笑んだ。


「好きです」


何度目かの告白は、今までのどれよりもあっさりしていた。
そして平和島静雄の反応もまた、あっさりしていた。


「そうか」


嬉しさも戸惑いも見せず、淡々とした様子を見せる平和島静雄は、止めていた足を動かし、の横を擦れ違った。


「平和島静雄君は何も悪くないですよ。貴方の暴力は絶対悪ではありませんし、貴方自身も同様です」


平和島静雄の冷たい背中に投げ掛けられたのは、温かく優しい言葉だった。
思わず縋りたくなりそうな、そんな言葉。


「…たとえそうでも、無理だ、もうお前と一緒にはいられない」


そう言い残して立ち去ろうとする平和島静雄の意志は固い。
に縋りたくても絶対に縋りはしないだろう。
自分の寂しさよりも、彼女を傷付ける恐怖の方がずっと強いのだから。
そしてにもそれはわかっていることだった。


「はい。平和島静雄君は優しいですから、きっとそれを選ぶのでしょうね」


彼の背中を追いかけながら、尚も彼女は声を掛けた。
平和島静雄の胸の奥、温かく息づく球体が彼女の声に反応して震える。
強固な意志が崩れるかもしれないと思うと、平和島静雄は歩く速度を上げた。
しかしは今度は駆け足になって、彼の前に回り込んで、再び2人は向き合った。
聞いてほしいと訴えるの熱い眼差しと、止めてくれと訴える平和島静雄の泣きそうな眼差しがぶつかった。


「ねえ、平和島静雄君」
「やめろ。俺はもう決めたんだ」
「…はい、わかっています」


わかっています、と彼女はもう一度呟き、ゆっくりと瞬きをした。


「だから、ストーカーします」


思わず平和島静雄は漏らした。


「は…?」


デジャブである。


「私のせいで貴方が傷付いてしまった。それはどんなに悔いても悔やみきれません。でも過去ばっかり見てても仕方ありませんから。結局私は平和島静雄君のことが好きなことに変わりはありませんし。どうやら私、ストーカー気質らしいんですよね」


彼女は悪戯に笑った。


「今日の喧嘩の時も平和島静雄君はとても美しかったです。そしてその美しさに感動している自分に気付いた時、やっぱりストーカーしようって思ったんです。この数日間いろいろと悩みましたけど、別に彼女じゃなくてもストーカーしてれば私は結構幸せですし、それに」


平和島静雄には、希望なんてなかった。
夢見ていた光景も諦めがついていた。
なのに、は彼の絶望も悩みも払拭してしまうかのように、あっけからんと言い放つ。


「将来、平和島静雄君が暴力も自分自身も許せる時が来たら、ストーカーしている私はすぐに傍に行けますしね」


何を言っているんだこのストーカー女は。
と思う平和島静雄であったが、どこか可笑しい気分だった。
けれど、と彼はマイナス思考に浸る。


「そんな日、来ないかもしれないだろ」


平和島静雄は彼女の提案に素直に乗ろうとはせず、必死に彼女に吹き飛ばされそうな絶望や悩みを掴んでいた。
精一杯の拒絶を並べた。


「来るかもしれません」


彼女はあっさりと彼の拒絶を拒絶する。


「じゃあ、絶対に来ない」
「いえ、絶対に来ます」
「ふざけんなストーカーなんてするな」
「ふざけてませんストーカーします」
「前は許可取っただろお前」
「今回は許可は取りませんよ。勝手にストーカーします」


なら勝手にしろ、と言いかけて止めた。
危なく口車に乗るところだったと平和島静雄を口元を手で覆う。


「別にいいですよ、拒絶したって。でも私は止めませんから、ストーカー」


明るく告げる彼女の髪とスカートが風に揺れた。
顔いっぱいの笑みとその姿に、平和島静雄は今まで見たの中で1番可愛いと感じた。


「私は一生貴方を好きでいます。そして一生貴方のストーカーでいます」


思わず、本当に思わず、平和島静雄は笑った。


「怖-よ、馬鹿」


手の甲に少し隠れた彼の口は確かに笑っていた。


「ホント、馬鹿だなお前。俺なんかに、そんなに…、馬鹿だな」


笑いながら照れて、少し泣きそうでもあった。


「はい、馬鹿です」


彼女もまた少し照れているように見えたが、その実、泣きそうだった。


「なあ、


平和島静雄は完全に絶望や悩みを失くしたわけではない。
だから今すぐ彼女を抱き締めることもしないし、傍にいてほしいなんて口にしない。
それでも伝えたい言葉があった。


「俺もお前を一生好きでいる」


その瞬間が保っていた笑みが崩れた。
はらはらと涙が零れる瞳、歯を食いしばりながらも震える唇。
何かに耐えるように、彼女は自分の手で自分を抱き締めた。


「待ってて、くれるか?いつか暴力も自分自身も許せる日を」


嗚咽が聞こえるが、恐らくは「はい」と言っているのだろう。
は大きく首を縦に何度も振った。
そんな彼女の姿が平和島静雄の目には歪んで見えた。
視界を涙が邪魔しているからだ。


「ずっと待ってますから…」


聞き取れた彼女の言葉に、平和島静雄は泣き顔を何とかして笑顔に変える。


「その日が来たら、今度は俺からお前のところに行く」
「はい、はいっ…!」


そして彼は、保健室で告げた、同じ言葉を囁いた。


「ありがとう」





一方その頃、岸谷新羅はセルティに、平和島静雄が彼女を別れたことを報告していたが、その顔はどこか明るいものだった。


『おい新羅。お前の口振りからすると、何だか深刻な問題でもなさそうだが、静雄は大丈夫なのか?』
「ああ、まあ、確かに別れたらしいけど、大丈夫じゃないかな?」
『?』
「不思議そうだね、セルティ。そんな君も素敵だよ」
『ふざけるな』
「あー、はいはい。いやね、見たんだよ」
『何をだ』
「哀愁漂う平和島静雄君の後を追うさんをさ。だから、きっと大丈夫だよ」
『……よくわからないが、新羅がそう言うということはそうなんだろうな』
「うん、きっとね」


新羅は家の窓から池袋の街を眺めた。
放課後、平和島静雄の後を追うを見つけた時と同じ、優しく甘い笑みを浮かべて。





数年後。
バーテン服を身に纏った平和島静雄はある女性に歩み寄り、その手を差し出して、こう告げた。


「俺はお前にずっと恋してる。…また一緒にいてほしい」


彼女は女神を彷彿とさせる穏やかな笑みを浮かべた。


「私もずっと貴方に恋してますよ、平和島静雄君」


そして彼の手を取り、数年ぶりに2人は触れ合う。


「待っててくれてありがとう、


そっと口づけを交わす2人の姿は、映画のワンシーンのようだった。


「好きだよ」


彼と彼女は額を合わせてくしゃりと笑う。


「私も好きです、大好きです」


そこには化物もストーカーもいなかった。
いるのは、恋人同士になった男と女だけだった。


inserted by FC2 system