夜を駈けるヴィーナス




9歳の時、ブラジルから日本に移住して、最初にできた友達はブン太だった。
神奈川第三小学校への転校初日、ブラジル人ハーフを珍しがって寄ってきた子達の中にいたのではない。
その翌日に訪れたテニスクラブで、俺達は知り合った。
「転校生のブラジル人のジャッカル君じゃん」といきなり話し掛けられ、当然クラスの名前など覚えられていない俺は困惑したが、ブン太はすぐに自分の名を告げ、他愛のない話をし始めた。
そして一緒に学校に行く約束を一方的にさせられ、クラスでもよく話すようになり、俺とブン太は友達になった。
その一方で、もう1人親しくなった子がいた。
飼育委員になった俺は、隣のクラスの女の子と一緒に、火曜日のウサギの飼育小屋の当番になったのだ。
よろしくな、と言えば、無愛想によろしくと返され、最初の印象はあまりよくなかった気がする。
けれど、初めて一緒に当番をした日、彼女は静かに、けれど無邪気に笑ったのだ。
俺が何かを言って、それに笑ったのだが、俺はもう何を言ったのか覚えていない。
でも彼女の笑顔だけは覚えている。
あの瞬間、俺は彼女を好きになったのだから。
とにかく、その飼育委員の活動が切欠で、彼女―と仲良くなった。



中学2年の冬、俺はに告白をした。
は俺の告白に頷いて、俺達は付き合うことになった。
テニス部の連中にはなぜか俺の約5年間の片思いは知られていて、茶化されたり祝われたり舌打ちされたりした。
幸せだった。



そして今。
俺とは、大学2年生。
季節は夏。
所謂倦怠期を迎えていた。



「いやいや、交際6年目で倦怠期って意味わかんねーよ」

鉄板の上でジュー、とカルビがいい感じに焼けていく。
大学近くの焼肉チェーン店でテーブルを囲むのは、俺とブン太と赤也の3人だ。
ブン太と赤也が肉の取り合いをしている間に、スペースの空いたところに肉を置き、そしてそれをまたブン太と赤也が取り合う、そんな席だ。
俺は何とかブン太と赤也から守り抜いた肉を食べるが、口に運ばれる大半は野菜と米だ。
スポーツをする男3人というだけあって、食べ放題のコースなので、肉は遠慮なく注文される。
次々と空いた皿は笑顔を張り付けた忙しない店員によってどんどん下げられていったので、もう何皿食べたのかはわからない。

「もう6年って、あれでしょ?夫婦みたいなもんで、安定してるんじゃないっスか?」

テーブルの真上に設置された換気扇に、鉄板から染み出る薄い煙が吸い込まれている。
俺と向き合って座るブン太と赤也は、肉を頬張りながらも俺の話は真面目に聞いてくれていた。

「なんつーか、安定し過ぎたっていうか。のことはもう何でもわかるんだけど、だからこそわかろうとしなくなったって言うのか?」
「わかってるんだから、わかろうとする必要ないんじゃないっスか?」
「んー、違う。なんか、俺はのことがもうどうでもいいんじゃないかって」
「どうでもいいのかよ?」
「よくねーよ」

ブン太と赤也が、意味わかんねー、と口を揃えた。
俺だってよくわかっていない。
けれど確かに俺とは倦怠期なのだ。
一緒にいて、自分がどうしたいのかわからなくなる時がある。
すると重い溜息を吐いていて、何かするのが面倒で、と一緒にいる意味がない気がしてしまう。
俺はが好きなのに。

「ジャッカルは別にのことが嫌いになったってわけじゃねーんだろ?」

俺が育てていた肉を華麗に奪い去ってブン太は、焼肉のタレを小皿に注ぎながら言った。
俺は肉を取られたことを嗜めることもなく、また新たな肉を育てにかかる。

「嫌いになるわけねーだろ」

俺がを嫌いになるわけがない。
それは当然のことだった。
どうして当然なのか、聞かれたら困るが、それでも俺はを一生好きでいるのだろうと思えた。

「じゃあ大丈夫ですって。倦怠期なんてすぐ乗り越えられますよ。ジャッカル先輩と先輩の場合、今まで倦怠期とかなさすぎて、タイムラグでやってきたってだけじゃないっスか?」
「そうそう。赤也の言う通りだぜ、ジャッカル。変に悩むから事態が複雑になっていくんだよ。今まで通りでいいじゃねぇか」

そうしてブン太がタン塩を追加注文した。
確かに、ブン太と赤也の言う通りな気がする。
でも俺は結局焼肉を食べている間、終始悩みを捨てられなかった。
俺は最近、の笑顔を見ていない。
こんな状況で、付き合っていると言えるのだろうか。
悩みが尽きない中、俺が育てた肉は赤也の口に放り込まれた。



ブン太と一緒に帰る夜道は、俺とブン太によって少々焼肉臭くなった気がした。
赤也は俺達よりも立海からは少々遠いので、まだ電車に乗っていることだろう。

「夏の夜って気持ちいいなぁ、ジャッカルー」
「あー、そうだな。涼しいし快適だ」

そうこう言いながら、少々上機嫌で俺とブン太はのんびりと帰路を歩いた。
ブン太はたまに鼻歌を歌う。
俺の知らない歌だ。
そうして分かれ道に差し掛かり、特に名残惜しさなどなく、「また明日なー」なんて言って、それぞれの家のある方へと爪先を向けた。



俺の住むマンション前に着くと、見覚えのある人がエントランスの入り口に寄り掛かっていた。
片足をぶらぶらと遊ばせて、退屈そうにしているのは、間違いなくだった。

?」

半袖のブラウスに、ふわふわしたスカート、お気に入りのサンダルという格好は、何度か見たことがある。
その胸元で輝くシルバーのハートのネックレスは、俺が高校1年の時に誕生日プレゼントで送ったものだった。
それに嬉しくなることはなく、あれはあの時のやつか、と思うだけで感情に起伏はない。
慣れというものは、次第に俺から嬉しいとか楽しいとか緊張といった、恋心を殺していったのかもしれない。
は顔を上げて俺を見るなり、少しだけふくれっ面をした。
拗ねているのだ。
そして多分、拗ねる原因には自分の失敗があって、それが恥ずかしいというものが含まれているのだろう。
エントランスにいた事実を踏まえると、なんとなくの失敗がわかった。

「鍵でも忘れたのか」

つい、笑ってしまった。
笑うしかなかったとも言える。
は少しだけ頬を赤らめた。

「そう、だけど」

恥ずかしい、というの思いがひしひしと感じられる。

「おばさん達は?」
「今日は帰って来ない」
「そうか」

まあ、そうだろう。
のお母さんやお父さんがいるのなら、別に鍵を忘れたってインターホンを鳴らせばいいだけなのだから。

「ったく。それなら待ってないでさっさと俺に連絡すればいいだろ。そしたらもっと早く帰ってきたぜ」

ポケットから複数の鍵のついたキーホルダーを取り出す。
そこには小さな白熊も一緒にぶら下がっている。
いつの日か、が俺の部屋でごろごろしている間になぜか付けたものだ。

「今日は、丸井君と切原君と一緒に焼肉食べるって言ってたから、悪いかなって。それに、そんなに待ってない」

は、昔から妙に遠慮してしまう癖があった。
どこか怖がっていると言ってもいい。
高校時代、それは少しずつ治っていったのだが、最近になって再び遠慮するようになった。
そういうところがまた倦怠期なのだと感じる一端になっている。

「あんまり待ってないなら、いいけどよ」

鍵を回してエントランスのドアを開ける。
俺の後ろをは着いてきた。
は最近、隣を歩かないのだ。

「お母さん、明日の朝方に帰るんだって」
「わかった。どうせ俺の両親は泊まっていくの許すだろ」
「ごめんね」
「いいって」

小四で知り合い、少ししてわかったことだが、俺とは同じマンションに住んでいた。
しかし小学校、中学校、高校、大学と、一緒に学校に行ったことは少ない。
小学生の時は、俺はブン太と、は他の女友達と一緒に登校していたし、中学高校ではテニス部の朝練が俺にはあった為だ。
一緒に帰ることは、それよりは多かったが、恐らくは少ない部類に入ることだっただろう。
大学はそもそも、は外部に行ってしまったので時間が被ることは本当に稀だ。
そういうことが積み重なって、今こうなっているのかもしれない。
そんなことをぼんやり思っているうちに、俺とが乗り込んだエレベーターはもう俺の家がある階に止まっていた。
エレベーターを降りても、はやっぱり俺の後ろを歩いていた。


「何?」
「今週の日曜、どっか行こうぜ」
「いいよ」

単調で淡々とした会話だ。
慣れてしまったのだ、デートの約束をすることに。
それはいいことなのかもしれないが、俺には悪いことにしか思えない。
まるで惰性で付き合っているようで。
家に着き、両親にが泊まることを告げると快くOKしてくれた。
そして俺が風呂に入り、部屋に戻ると、化粧を落とし終えたはケータイを弄りながら鼻歌を歌っていた。
先程の夜道で、ブン太が歌っていたものと同じ歌だった。
どうしてか、その歌は誰の歌で、曲名は何なのかとは聞けなかった。
そうして常に俺の部屋に置いてある、が寝る用のスウェットを渡して、俺はそのまま布団に潜った。
少しして布団に潜りこむにそっとスペースを空けると、は「ありがと」と小さく呟いた。
「いいって」とだけ返して、そっとを抱き締める。
すると何となく安心した。
けれど、人肌なら誰のものでもいいんじゃないかとも思った。
その疑問に対する答えはよくわからなくて、とりあえず考えるのを止めた。
腕の中で、は既に眠っている。
俺はそのおでこにキスをした。
そして好きだと言う代わりに、を抱き寄せて眠る。
今日も、の笑顔を見れなかった。
それが悲しいよりも、またか、という呆れの方が大きい俺の心は、何なのだろう。
確かに、この腕の中の恋人が愛しいのに。
目を瞑る俺の頭の中では、ブン太が、そしてが鼻歌で歌っていたあの曲が曖昧に流れていた。


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