にわかに射し込む純情のまぼろし




アラーム音に無理矢理起こされ、手は自然と目覚まし時計を叩いていた。
時間を確認すると朝7時。
今日は1限から授業があるのだとぼんやり思いながら、隣の白い塊を見る。
布団に潜って幸せそうに寝ているは、今日は確か2限からだったはずだ。
とりあえず寝かしておくか、と思い、俺はベッドから出る。
遮光カーテンはのためにも開けないでおこう。
なるべく静かに部屋を出ると、親父が丁度家から出て行くところだった。

さんはまだ寝てるのか?」
「ああ、ぐっすりな」
「そうか」

それだけ言って、親父は満足そうに笑った。
今まで通り、普通に寝泊りしている彼女と倦怠期を迎えているとは夢にも思っていないのだろう。
そんな親父が「いってくる」と仕事に出かける。
俺は洗面所に向かった。
洗顔して、幾分かさっぱりした。
歯を磨いて、頭を剃る。
が昔、俺に髪を伸ばさないのかと聞いてきたことがあったっけ。

『伸ばした方がいいか?』
『んー、そのままでいいよ。伸ばしてもいいけど』
『どっちだよ』
『どっちでもいいよ。どっちも私の好きなジャッカルであることに変わりはないから』

あの後赤面した俺を見て、は照れ臭そうに小さく笑ったのだ。
懐かしい。
好きだとか、そんな言葉も最近聞かないな。
溜息を漏らして部屋に戻ると、は相変わらず寝息をたてていた。
黒い髪にほとんど覆われている寝顔はとても安らかで可愛らしい。
どうしてか、また溜息が零れた。



のことは起こさずに、母親にを任せて大学に向かう。
昨夜、ブン太と一緒に焼肉の匂いを撒き散らして歩いた道を辿ると、俺の他にもサラリーマンや学生が朝から強い夏の日差しに襲われながらも駅へと足を進めている。
蝉も朝から元気に鳴いていた。



電車はクーラーが効きすぎている、と思うのは俺だけだろうか。
入った瞬間は気持ちいいが、ずっとこの冷房に当たっていると体調が悪くなるような気がする。
はこういうのに敏感だから、クーラー避けのためのカーディガンを持ち歩いている。
俺はそこまでするほどではないと思っていたから少し驚いたのを覚えている。
なんでも男と女では最適な気温というのが違うらしい。
だから俺は、が部屋に来る時は、に合わせた温度にクーラーを調節するようにしたのだ。
それが普通になって、もういちいち気にすることもなく、自然と温度調節をするようになった。
はその行為に気付いているのだろうか。
別に「ありがとう」と言ってほしくてやっているわけではないけれど。



「俺はどうしたいんだ…」
「知らねーって」

1限の授業はブン太と一緒だ。
俺は国際学部、ブン太は経済学部ではあるが、この授業は全学部共通の教養科目のため、同じクラスにいるのだ。

「ジャッカルはよ、もっとデレてほしいの?ってクール8割、可愛らしい2割みたいな女なわけだし」
は10割可愛らしいっつの。クールなところも可愛いんだよ」
「じゃあ何が不満なんだよ」
「不満はねーよ」
「…どうして倦怠期なわけ、お前ら」

ブン太が呆れた視線を向けてくる。
俺はその視線から逃げつつ、この授業のノートを机に広げ、筆記用具をリュックから出した。
別にに不満はない、あるわけない。
俺には勿体無いと思う程だ。

「ああ、そうか」

俺のその小さな呟きに、ブン太が「ん?」と反応した。

「俺がに、負い目を勝手に感じてるだけだ」

立海よりもレベルの高い大学に進学した。
年々綺麗になって、教養も品格も身に付いている。
大学に入ってから、化粧品を部屋の隅に並べ始めた。
バイトもやり始めたし、サークルにも入ったし、人間関係を広げている。
そんなに、俺は一方的に負い目を感じてしまっているのだ。
一応続けてはいるが、本格的にやっているわけではないテニス。
バイトに行って、親父の店を手伝って、1番仲が良いのは未だに中学からのテニス仲間という、コミュニティーの狭さ。
ビジュアルがいいわけでも、特別おしゃれもしない。
そんな俺がに釣り合っているとは思えないのだ。
大学に入って、と少し離れただけで、そんな不安材料が溢れてしまった。
多分、それがこの倦怠期の原因なのだろう。
中学高校と少しずつ感じてきた負い目が積み重なって、ここにきてこんな状況を生み出した。

「俺は、ジャッカルとはお似合いだと思うけどな」
「そんなわけなーよ」

そんなわけないと、心の底から純粋に思えてしまう程、は可愛く美しく魅力的な女性になってしまったのだ。



講義が始まると同時に、隣のブン太は腕を枕に寝てしまった。
他の授業も寝てばかりなのかと聞いたが、俺のノートがあるからこの授業はいいのだと言う。
昔からブン太、ついでに赤也には随分振り回されたし、お世話係をしてはいたが、20歳になっても尚、俺を頼るとは、俺も随分信頼されたものだ。
寝ているブン太の自業自得だと言って、今板書をしているこのノートをブン太に渡さないのは簡単だが、絶対的な信頼を感じては渡さないわけにはいかない。
そもそもこうして頼られたり、貧乏くじを引くのはいつものことだから気にしないのだが。
俺は教授が協調したところに蛍光ペンでチェックを入れた。
はそろそろ起きただろうか。
のことだから、起きてから覚醒するまで15分かかる。
その間に二度寝に入らなければいいが、母親に任せてきたから多分大丈夫だ。
そんなことを考えていたら、板書を書き間違えてしまった。
消しゴムを取り出し、ノートの間違えて書いてしまった文字を消す。
が隣の席にいて、消しゴムをカッターで切って俺にくれたのは、高1の秋だったか。
と同じクラスになれて幸せだった中3と高1の頃は色濃く甘く思い出として脳内に残っているし、隣の席になれた、あの文化祭時期はよく覚えているのだ。



講義が終わると同時に、隣の赤髪はむくりと顔を上げる。

「うあー、よく寝たぜぃ」
「ホントよく寝てたな、お前」

パシン、とブン太の頭にノートを当てると、ブン太はそのままノートを受け取った。

「んじゃ、写して返すわ」
「おー、また後でな」
「おー」

次の授業はブン太とは違う授業で、国際学部の友人が席を取っているはずだ。
リュックを左肩に預け、ケータイを開く。
メールが2件入っていた。
1件は放課後の元テニス部の集まりに柳が来れないという内容で、もう1件はからだった。

[ 起きました。いってきます。日曜が楽しみです。 ]

のメールはなぜか敬語が多い。
日曜のデートはどこに行くか決めていないが、が行きたいところはないのだろうか。
次の授業のある教室に入ると、やはり友人が席を取っていたので、挨拶をしてそこに座る。

[ おはよう。いってらっしゃい。日曜に行きたい場所、どこかないか? ]

メールを打ち終わり、送信する。
隣で友人が「彼女か?」と聞いてきたので、「まあな」とだけ返した。
すると友人はいいなー、だとか羨ましいだとか、彼女の写メを見せろだとか言ってきたが、基本的にテキトーに相手をした。
そうしているうちにからのメールが届く。

[ 植物園とか。 ]

どこでもいい、とか返ってくるかと思っていたから、少しだけ驚いたと同時に嬉しくなった。
俺は少々破顔しながら、メールを作成する。

[ じゃあ、植物園行こう。俺も楽しみだ ]

これでいいだろうと、送信ボタンを押す。
とのデートは、作業のような淡泊なもののようになってはいたが、久しぶりにが行きたい場所を指定したので本当に楽しみになった。
しかし、一抹の不安や恐怖が腹の底に眠っている。
への負い目が、の隣を歩けば歩く程、強くなるのではないか。
このデートで決定的な何かを感じてしまうのではないか。
そう思ったら、楽しみに浮かれている胸に反して、胃がキュッとした。
そんな俺の気持ちを知りもしない隣の友人は、「いいよなー、付き合いの長い彼女とかさー」と言っていた。



友人たちとの会話などで気を紛らわしながらも、のことで気が滅入ってはいたが、授業が終わると俺はとあるテニククラブに足を運んでいた。
木曜日は、元テニス部レギュラー陣が集まる日になっているのだ。
アマチュアで大会に出ている赤也を除けば、このメンバーで本格的にテニスをしている者はいない。
それでも俺達はテニスが好きだし、テニスをすることは習慣に位置付けられている。
厳しい練習も、勝つ為の努力もしてはいないが、日常的に走ったり筋トレしたり、こうして皆でテニスをすることは、当たり前のことなのだ。

「参謀は研究実験実験研究実験と忙しそうじゃの」

仁王は未だに柳のことを参謀と呼ぶし、赤也だって真田を副部長と呼ぶ。
そういう名残や形は今でもここにあるのだ。

「仁王先輩も理系じゃないっすか」

赤也はプロを検討しており、このテニスクラブでコーチ3人にしごかれている。
実はこんな大学生の集まりに来ていいはずがないのだが、真田や幸村の存在のおかげで許されていたりするのだ。
ちなみにビッグスリーはこのテニスクラブでコーチを頼まれ、たまにバイトとしてテニスの指導に当たっている。

「俺は実験より心理の方が圧倒的に多いしのぅ。同じ理工学部でも専攻は全く違うから他人事なんじゃ」
「ふーん。専攻とか初めて知りました。俺も何か選ぶんスかね?」
「切原君は体育学部ですから、特に何もないでしょう」
「あ、そーなんスか。なら良かった。俺、あんまりわかんないんで」

赤也は相変わらず可愛がられていると思う。
俺はブン太に菓子を催促されたので、とりあえずスナックを渡した。
ブン太がどうせ催促してくるだろうと思い、コンビニで買っておいたものだ。

「ふふっ。それより、赤也は英語の単位の心配が先だと思うけどね」
「うむ。もうすぐ前期のテストだが、どうなんだ赤也」

幸村と真田はもう赤也の親のような存在だな、と眺めていて思った。
赤也は慌てて話を逸らそうとするが、それは逆効果になり真田に怒鳴られる。
また俺が赤也に英語を教えるハメになるんだろうな。

「じゃあジャッカル、教えてやってくれよ」

ふふっ、と笑ってそう言ったのは幸村だ。

「俺かよ」

もう諦めの溜息しか漏れない。

「あー、よろしくッス、ジャッカル先輩。マジ頼みますんで…」
「ああ、わかったわかった」
「なんか、先輩と倦怠期なのにすんません」

その言葉に勢いよく反応したのは幸村だった。
目が輝いたのだ。

「え、ジャッカル、さんと倦怠期なのかい!?ちょっと詳しく話してよ」

幸村は意外とというかやはりというか、下世話な話が好きなのだ。
ちなみに柳生も案外食い付いたりする。
その証拠に眼鏡をクイッと上げ「どういうことでしょうか」とこちらに迫ってきた。
仁王はその様子を喉で笑い、真田は「お、おい…」と幸村の遠慮のなさを止めようとしているが全く効果がなく狼狽えるばかりだ。
ブン太は俺とのことを知っていることもあるが、何よりスナック菓子を食べるのに忙しい。
勘弁してくれ、と心の中で嘆きながらも、俺は口を開くしかなかった。


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