溢れるきらきら星の遁走劇




ジャッカルと出会ったのは、9歳の時だった。
隣のクラスに外国人が転校してきたという話題は、小学生には刺激が強く、皆こぞって騒ぎ立てた。
私はその頃から中々に冷めていたし、人見知りの激しさから野次馬をしようとは思わなかったけど、友達に連れられて、彼の転校初日の様子を覗きに行った。
人の隙間から見えたブラジル人ハーフは、明らかに私達とは違う骨格や顔の形、肌の色から、すごく遠い人に見えた。
あの時は、まさか6年も恋人として一緒に過ごすことになるなんて思ってもいなかった。



鍵を忘れてジャッカルの家に泊まったのだと、目が覚めてから理解するまで3分くらいかかった。
そしてそのままゴロゴロとジャッカルのベッドで転がって、時間も確認せずに二度寝に入ろうとすると、ガチャリと部屋のドアが開いた。
うつらうつらしている頭で「ジャッカルかな」と思ったが、そうではなかった。

ちゃん、起きなさい。二度寝しちゃ駄目よー」

おっとりした女性の声は、紛れもなくおばさん―ジャッカルのお母さんのものだ。
おばさんとも、もう付き合いは長く、お友達のような関係と言っても差し支えない。

「んー」

そんなわけで私はのんびりと布団に包まることも、寝惚けて甘える声を出すことも普通にできるのだ。

「ほら、起きなさい」

おばさんもまた、私に遠慮はあまりしない。
べりっ、と布団を剥ぎ取られ、勢いよくカーテンを開けられた。
いきなり差し込んだ溢れんばかりの眩しい光に目が細まり、呻きながら枕に顔を埋める。
一方でおばさんはルンルン気分で部屋を出て行った。
その数秒後、気怠く上半身を起こし、ベッドの上に座ったまま、見慣れ過ぎてしまったこのジャッカルの部屋を何となく見回す。
ジャッカルの部屋は、テニスとブラジル文化と日本文化がどういうわけか上手に調和して同居しており、所々で存在を主張する私の物が若干浮いている。
部屋の真ん中にあるローテーブルには、100円均一で売っているプラスチックのボックスが置かれており、その中には化粧落としから化粧水、乳液に、更にはネイルまで入っている。
他に、テニス雑誌に紛れて並ぶ女性誌や、ブサイクな顔したネコの大きなクッションも私が持ち込んだものだ。
壁にかかっているコルクボードに貼られた写真は、中学高校のテニス部の人達と一緒のものと、私との2ショットのものばかりだ。
見れば見るほど、ジャッカルの部屋には私の痕跡が数多く残されていた。
少しずつ、持ち帰ろうと思った。
そして私はここにいない方がいいとも思った。
朝の日差しはとても眩しいのに、私の胸の中はひどく暗く、私は鞄と私服を手に、ジャッカルの部屋を出る。
背後で閉めたドアの音が、淋しかった。



おばさんの好意で朝食を桑原家でいただき、スウェットのまま桑原家を出る。
階段で2階下り、少し進めば我が家なのだ。
同じマンションというのはこういうところが利点だと思う。
家に帰ると、ドアはすんなり開いた。

「おかえりー。鍵忘れたでしょ、アンタ。ジャッカル君の家泊まったの?」

玄関で靴を脱ぐとリビングから聞こえた母の声は、私に泊まったのかと尋ねてはいるが、ほとんど決め付けているニュアンスだ。
私は「うん」と答え、洗面所に向かう。
私服を洗濯機に投げ入れ、スウェットに下着も脱ぎ、これも洗濯機にポイだ。
鞄は適当に棚の上に置き、浴室に入る。
ガスがついていることを確認して、シャワーを出した。
頭の天辺から爪先を、温水が伝う。
髪の先から、ポタポタと水滴が流れるように落ちていき、頭の奥にあった眠気がゆっくりと消えていく。
ジャンプーをして、リンスを付けて、ボディーソープで体を洗う。
その行為は、私の身体に残ったジャッカルの体温や感触を洗い流すようだった。
石鹸とシャワーが、滑らかに私の肌を撫でた。



シャワーを浴び終え、ドライヤーで髪を乾かし、着替えてお化粧をして鞄の中身を今日の授業のものに取り替えると、私は颯爽と家を出た。
母は「忙しないわねー」と呑気に呟いていた。
マンションを出て、腕時計を確認する。
2限には間に合う電車に乗れることがわかると、私は歩く速度を緩めた。
何せ炎天下なのだ。
余計な体力を使って無駄に汗などかきたくない。
コンクリートの地面からの熱や蝉の暑苦しい大合唱に疲弊はするものの、駅への道は日陰が多いことが唯一の救いだ。
なるべく日陰の中に入るように、歩く場所を調節する。
それでも背中が少々べったりした。
これだから、夏は嫌いだ。

「あ、そうだ」

一応ジャッカルにちゃんと起きれたことを報告しておこうと思い、ケータイを開く。
なぜか私はメールだと妙に敬語を使う癖があり、中々直らない。
[起きました。いってきます。]とメールを打ち、昨夜のデートの約束を思い出した。
珍しく私とジャッカルの両方のバイトがない日曜日があると、シフトが出た時一緒に騒いだのをジャッカルは覚えていたのだろう。
だから日曜、デートに誘った。
同じマンションだから会おうと思えばすぐに会えていたけれど、デートは最近めっきりしていなかったので、久しぶりのデートは嬉しい。
そう、嬉しいのだ。
[日曜が楽しみです。]の一言も付け加え、送信する。
送信する時、ケータイを天に向かって少し上げてしまう癖も、中々直らない。



外のむせ返るような、肌を焦がす熱気に比べて、電車の中は天国かもしれない。
しかし私は冷房というものがあまり好きではない。
程よいならまだいいが、電車の中の冷房は強過ぎる。
空いている電車で座っている私は、鞄にいつも入れているクーラー避けのカーディガンを羽織った。
この強過ぎる冷房もまた、私が夏嫌いな一因でもある。
カーディガンを羽織って安心感を得た時、ケータイが震えた。
ジャッカルからの返信だ。

[ おはよう。いってらっしゃい。日曜に行きたい場所、どこかないか? ]

「おはよう」と「いってらっしゃい」に、ジャッカルの優しさや律儀さといった魅力を感じながら、行きたい場所を考える。
正直、どこでもいいというのが本音だ。
なので、最初はそう入力しようかと思ったが、思い止まる。
淡々とした約束だったけど、久しぶりのデートなのだ。
どこでもいい、なんてどうでもいい感じで返信したら、いけない気がした。
どうでもいいわけではないから、そう思われるようなメールは送りたくないのだ。
今まで、何度もそんなメールをしてしまってはいるが、今このタイミングでそんなメールは送れない。
私は思案して、あるひとつの場所を思いついた。

[ 植物園とか。 ]

そう、返信した。
するとすぐにケータイは震える。

[ じゃあ、植物園行こう。俺も楽しみだ ]

そうだ、日曜が楽しみだし、デートは嬉しい。
それなのに、笑みが浮かばない。
ジャッカルのことが好きなのは確かなのに、デートに心躍らないのだ。
ケータイを閉じ、窓の外で流れていく景色を眺める。
倦怠期だと思った。
倦怠期の理由は、思い当たる節がいくつもあったけれど、あるひとつに最終的に集束することはわかりきっていた。
それは言ってしまえば、私のせいだ。



大学の授業が終わると、友人にカラオケに誘われた。
女友達6人でのカラオケは大いに盛り上がり、深夜まで続いた。
その過程で、私の倦怠期についてが話題に上った。

「交際6年で倦怠期とか意味わかんない」
「だって確か、もう相手の家族にも認められちゃってるんでしょ?」
「何?彼氏に飽きたの?」
「ずっと付き合ってるから新しい刺激が欲しいとか?ああ、マンネリ化?」
「倦怠期なんて不満があるからなるんじゃない?お互い本音言い合ったりとかすれば?」

一緒にカラオケに来ている5人は注文したピザを食べながら矢継早に意見を口にする。
私はウーロン茶をストローで啜った。

「ジャッカルに飽きるとかは有り得ない。めちゃくちゃいい男だし。不満なんてない。マンネリ化は否定できないけど、別に今の付き合いは理想的だと思ってるからいいの。夫婦みたいな感じで。ただ、私が悪いの」
「悪いって?何?浮気?」
「浮気ではない」

ジャッカルがいるのに他の男になんて惹かれるわけがないだろう。
そういう目線を向ければ、ちょっと呆れられた。
「ベタ惚れだね」なんてニヤニヤして言われた。

はさ、倦怠期の理由わかってるんだよね」
「まあね」
「何?」

5人の女友達が、ぐいっと前傾態勢になる。
興味津々といった様子だ。
あまり言いたくはなかったが、言わないときっと解放してくれないのだろう。
私はまたウーロン茶を一口喉に通した。

「私が、ジャッカルに釣り合ってない」

意を決して、という言葉に、友人達は眉を顰めた。
その反応に私も眉を顰める。

「そんなの、今更悩むこと?」

一人の子の言葉に、他の四人が深く頷いた。
確かに釣り合う釣り合わないは付き合う前か付き合い始めた頃に乗り越えるべき壁だろう。

「中三で、一回乗り越えはしたんだよ、釣り合う釣り合わないは」
「うんうん」

ジャッカルと同じクラスになった中三の時に、ジャッカルをすごく近く感じて、本当にそれは悩んだ。
けれどそれはなんとか乗り越えることができたが、多分、無理矢理自分を納得させたと言った方が正しいのだろう。
そのツケが今、回ってきているのだ。

「その中三の時の壁が、また現れたの。しかも強力になって」

1年前、ジャッカルが告げた言葉が、この倦怠期の始まりだった。

「ジャッカルと仲が良かった女の子が、帰ってきたの」

それを聞いた時、私は怖くなった。
何せ彼女は、素敵な女の子だったから。

「ジャッカルとその子は、すごくお似合いで、釣り合っているんだよ」

彼女の名前は、山川樹里。
テニス部の元マネージャーで、今日の元テニス部の集まりにも顔を出しているであろう人物だ。
私は彼女から逃げるように、ジャッカルからも逃げた。
彼女によって卑屈になっている自分を悟られたくなくて、壁を作った。
ジャッカルは彼女の方がいいんじゃないかと思ってしまうと、もう被害妄想は止まらなかった。
倦怠期の理由は、劣等感を抱くことしかできない私にあるのだ。



ねえ、ジャッカル、山川さんと一緒にデートに行った方がきっと楽しいよ。
そう言えたら良かった。
マンションに着いた深夜、私は空を見上げた。
日曜のデートで、私は常にそこにはいない山川さんを意識しては負けてを繰り返し、きっとジャッカルの隣にいるのが辛くなる。
それでもデートに行くのは、ジャッカルが好きだからだ。
9歳の時から、ずっとずっと、好きだ。
夜空には星々が浮かんでいて、綺麗だった。
ジャッカルが告白してくれた時も、星が煌めく夜だった。


inserted by FC2 system