れいこくなエンゼルフィッシュ




俺の英語の話題から、ジャッカル先輩と先輩の倦怠期へと話題が移ったことに安堵しつつ、コートのフェンスの向こうを見ると、樹里さんがこちらに駆けて来ていた。
ボブカットの茶色い髪が揺れ、非常に可愛らしい顔は若干赤く、樹里さんはブンブンと大きく腕を振ったので、俺も振り返した。

「樹里さーん!」

俺の呼び声に、先輩達も樹里先輩に気付いたらしい。
柳生先輩はコートの扉を開けに行った。



樹里さんは、立海テニス部のマネージャーとして中学時代、俺達をサポートしてくれた大切な仲間だ。
全国大会準優勝という結果で、俺が中二、先輩達が中三の夏が終わった後、高校は立海に進まないのだと樹里さんは俺達に告げた。
親の仕事の都合で中学卒業と同時に神奈川から引っ越すのだと。
そうして樹里さんとは高校はマネージャーどころか同じ学校ですら、同じ県に住んでいるわけでもなかった。
しかし樹里さんは今、こうして俺達と一緒にいる。
神奈川の大学を受験し、見事合格したからだ。
樹里さんは今、1人暮らしをしている。



「遅くなっちゃってごめんねー。って、まだテニスしてないじゃん」

柳生先輩に「ありがと」と告げ、俺達の元に来た樹里さんは昔と変わらず明るい笑みを向ける。
大輪の花が開く、みたいな笑顔だ。

「今からするって」

ジャッカル先輩から貰ったスナックを食べ終えたブン太先輩がラケットを手にそう言った。
そのラケットで俺の尻を小突く。

「軽く打つぞ、赤也」
「うーっス」

コートは2面取ってある。
俺とブン太先輩はテニスボールを数個手に取り、奥のコートに行く。
ちらりと振り返ると、樹里さんはジャッカル先輩に話し掛けていた。

「俺、ジャッカル先輩は樹里さんと付き合うと思ってたなぁ」

ブン太先輩と軽くストレッチをし、靴紐を結び直している時、そんな言葉がふと漏れた。
すると頭をバシッと叩かれる。
勿論、ブン太先輩に殴られた。

「そういうこと言うなよ、バカ也」
「はぁ、スミマセン」
「うわ、棒読みにも程があるだろソレ」
「だって悪いこと言ってるなんて思ってないですし」
「お前なぁ」

ブン太先輩は、軽く非難するような目で俺を見たが、それは無視する。
中学時代、ジャッカル先輩が樹里さんではない女子と付き合うことになった時、俺はまず意味がわからなかった。
傍から見ていて、ジャッカル先輩と樹里さんは特別な仲にしか見えず、もう付き合うまで秒読みだろうと思っていたからだ。
しかし、そう思っていたのはどうやら俺だけだったらしく、先輩達は「やっとかー」なんて言っていた。
俺はそのときまで、ジャッカル先輩の片思いは知らなかったが、先輩達は知っていたのだ。

「あんなに仲良かったんだし、樹里さんと付き合うんだろうなって思っててもおかしくないじゃないっスか。しかも、今でも俺、先輩のことよく知らないし」
「あー……。まあ、はテニス部に全然顔出さなかったもんな」
「そうなんすよ!先輩のこと見かけることはあっても、話したことなんて片手で足りるかもだし」

しかも、俺が見かける先輩の多くは、ジャッカル先輩の隣にはいなかったのだ。
ジャッカル先輩の隣にいる樹里さんなら、中学時代よく見ていた。
だからこそ俺は、樹里さんとジャッカル先輩が付き合っていないことが、正直不思議でならない。

先輩の話をしてるジャッカル先輩より、今樹里さんと話してるジャッカル先輩の方が、なんか幸せそうだし」

さっきまでいた、コート脇では樹里さんと肩を並べて楽しそうにしゃべっているジャッカル先輩がいた。
盗み見る俺の視界を遮るように、スッとブン太先輩が目の前に立つ。
そのとき、自分の靴紐を結ぶ手が止まっていることに気付いた。
見上げた先のブン太先輩は、俺を咎めるような、戒めるような、そんな目をしていた。

「そういうの、二度と言うなよ、赤也。今は見逃してやるけど」

はいはい、と返事をすると、ブン太先輩は無言のまま、コートに入った。
寧ろ褒めてほしい、と心の中でブン太先輩の後ろ姿に愚痴る。
俺が本当に思っていることのもう一つを言葉にしなかったことに感謝されてもいいぐらいだろう。
俺は、ジャッカル先輩は樹里さんと付き合うのだと思っていた。
そして、先輩はブン太先輩と付き合うのだと思っていた。
俺が学校でよく見る先輩は、ブン太先輩の隣にいたのだから。

「んじゃ、俺がサーブな、赤也」
「いーっスよー」

俺もコートに入り、ブン太先輩と相対する。
夕方なのに鋭い日差しの差し込むコートに、ブン太先輩の放ったボールが跳ねた。



先輩のことは、中一の春から知ってはいた。
名前を知ったのは、ジャッカル先輩と付き合ってからだけど、その横顔と後ろ姿、昼休みによく屋上庭園にいることは知っていたのだ。
中一で、1番最初に仲良くなったテニス部の先輩は、ブン太先輩とジャッカル先輩だった。
新歓でブン太先輩にからかわれて、キレて、大ゲンカした懐かしい思い出もあるが、それはまぁいいだろう。
とにかく俺はブン太先輩達と仲良くなって、昼休み、漫画を借りようとブン太先輩を探した。
人づてに、屋上庭園にいると聞き、屋上の扉をそっと開いた時が先輩を初めて見た瞬間でもあった。
そこにいた女生徒の手にあるホースから出た水が花々に降りかかり、キラキラ光る。
その両隣には、知る顔の先輩がいた。
左側では同じく花に水をあげる幸村部長―当時は部長ではなかったが、右側ではしゃがんで花を見ているブン太先輩。
俺はそれを見ただけで確信したのだ。
ブン太先輩は、あの女の人が好きなんだと。
それから何回も何回も、屋上庭園でその3人を見た。
女の人は、幸村部長とも仲が良さそうではあったが、付き合うならブン太先輩のように思えた。
というか、最初はブン太先輩とその女の人は付き合っているのだと思えた。
それくらい、いい雰囲気だったのだ。
ブン太先輩にさりげなく彼女がいるのか聞いたとき、いないと即答されたので、その誤解は間もなく解けたのだが。
そして俺が中一、先輩達が中二の冬。
ジャッカル先輩がという人と付き合うと知った時、まず樹里さんでないことに驚き、次にがあの屋上庭園の女の人なのだということに驚いた。
まったくもって、当時は意味がわからなかった。
今もよくわかっていないのだが。



テニスをするのは楽しいし好きだ。
特に先輩達とのテニスは刺激が強いし、いい経験になる。
先輩達は俺と違って、将来の道にテニスを考えてはいないけれど、きっとテニスを忘れることはないのだろう。

「いい汗かいたー!」

そう言って大きく伸びをするのは樹里さんだ。
部活ではないので、樹里さんも俺達に混ざってテニスはする。
勿論本気になったりはせず、結構ふざけた感じのテニスだ。

「夕飯、何か食べて帰りますか?」
「いい提案だね、柳生。何食べたいって…、まあ、焼肉かな、このメンバーは」
「当然じゃ」

焼肉なら、昨日食べたばっかりだけど、全然構わない。

「いいっスね、焼肉!」
「昨夜食ったばかりじゃねぇか…」
「別にいいじゃん。ジャッカルも肉好きだろぃ?」
「まあ、そうだけどよ、流石に二日連続はキツイって」

げっそりとした顔のジャッカル先輩の隣には、当たり前のように樹里さんがいる。
樹里さんは自然とジャッカル先輩の腕に触れた。

「大丈夫だって、ジャッカル。ジャッカルは四つの肺を持つ男なんだからさ」
「いや、肺は関係ないだろ」
「あ、そっか」

二人のやり取りは、多分特別なものではない。
それくらいの応酬は、樹里さんとジャッカル先輩とでなくてもする。
ボディータッチだって普段から多いのが樹里さんだ。
でも、樹里さんのジャッカル先輩を見る目は昔と変わらず、特別なまま。
ジャッカル先輩が樹里さんを好きなのだという俺の想像は間違っていたが、これだけは間違っていない自信がある。
樹里さんは、ジャッカル先輩のことが中学の頃から好きなままだ。

「では焼肉ということで決まりですかね?」
「ジャッカル、どうするんだ」

真田副部長の威圧感ある言葉に、ジャッカル先輩は視線を泳がせた。

「あー…、どうすっかな」
「えー、行こうよジャッカルー」

樹里さんの甘えるような声、「でもなぁ」と言いよどむジャッカル先輩の口からは、先輩の名前が零れ落ちた。

「また焼肉に行くんだったら、それよりもにちょっと会っときたいんだよなぁ」

その名前に、樹里さんの表情が固まったことを、多分ジャッカル先輩以外は気付いていた。
あの真田副部長でさえだ。
幸村部長がいつもの恐ろしいくらいに優しい笑みを浮かべて、一瞬走った緊張感を解すように口を開く。

「そうか、それじゃあジャッカルは、今日は駄目かな」
「ああ、すまねぇ」
「いや、赤也とブン太はともかく、二日連続焼肉は流石にね」

フフッ、と笑う幸村部長に触発されるように、俺達も次々と口を開いた。
先輩の名前を出さないようにしながら。



夏は夜になるのが遅い。
午後6時なんてまだまだ明るいし、暑さだって和らぎはしない。
けれど8時を過ぎてしまえば、もう空は暗いし、程よい涼しさが漂う。
街のネオンが夏独特の不思議な輝きを放つ中、ジャッカル先輩と柳先輩のいない元テニス部メンバーで向かった焼肉のチェーン店は、昨夜のお店とは別の系列のお店だった。
幸村部長と柳生先輩、樹里さん以外は、とにかく肉を食い続け、たまに幸村部長に「野菜も食べなよ?」と問答無用で野菜を食べさせられた。
柳先輩とジャッカル先輩がいないのは残念だが、見慣れた光景だ。
こうして中学からの部活仲間で今でもわいわいできるのは、とても幸せなことで、俺は胸の奥が温かいのを感じた。
しかし、楽しさで踊っていた胸は急に冷める。
樹里さんの一言によって。

さんは、いいなぁ」

ついさっきまで笑っていたブン太先輩が、黙ってご飯を口に掻き入れる。
仁王先輩はちらりと樹里さんを一瞥してから、ジンジャエールを飲み干す。

「まだ樹里は、ジャッカルのことが好きなのかい?」

幸村先輩はさらりと爆弾を投下する。
真田副部長が腕を組み、困った顔をしていた。
柳生先輩は表情を崩すことなく、焼肉をひっくり返す。

「うん、まぁね」

樹里さんの言葉に、それぞれが落胆やら同情やらを見せる中、俺はやるせなさに、誰にも向けることのできない怒りを覚えた。
俺達の青春をほとんど占めていたテニスに、樹里さんはいるけれど先輩はいない。
けれどジャッカル先輩を射止めたのは、樹里さんではなく先輩だった。
俺達が青春をかけたテニスに1mmも興味を抱かない、あの女の人なのだ。
ムカつく。
先輩はブン太先輩とくっつけば良かったんだ。
そしたら樹里さんは傷付かなくて済んだし、こんな悲しい顔せずに済んだはずだ。
しかも、運の悪いことに、樹里さんの通う大学が問題だった。
樹里さんと先輩は、同じ大学に通っている。
ジューと肉が焼ける音が支配する中、少し焦げてしまったカルビを歯で引き千切るように乱暴に喰らう。
俺は先輩が、嫌いだ。


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