ただ望まれた透明




俺は、ジャッカルだからを譲れたし、だからジャッカルを譲れた。
それは揺るぎようのない事実だ。
けれどたまに俺の心を締め付けるのは、昼休みの屋上庭園で、と幸村君と一緒にいたあの時間だった。
太陽の光に反射してホースから降るシャワーの水が眩しく輝き、花に雫が垂れ、が緩やかに笑う光景が、今も俺を苦しめ切なくさせる。



とは、同じ小学校だったけど同じクラスになったことはなく、接点のないまま6年間が終わり、中学に入学してすぐ接点を持った。
中学一年生で同じクラスになり、同じ班になったのだ。
俺は人見知りとかしないし、ただ自己紹介で同じ小学校出身だと知ったので、持ち前の明るさで告げたのだ。

『俺も同じ神奈川第三だぜぃ。しゃべったことなかったよな』
『うん』
『よろしくな!』
『…よろしく』

それが最初。
結局その同じ班というだけでは大して仲良くはならなかった。
けれど俺達の接点はそれだけではなかったのだ。
俺は入学してすぐ入ったテニス部でできた仲間の中でも、特に幸村君とは気が合っていた。
クラスでは明るくて騒ぎの中心にいるようなキャラではあったが、幸村君との落ち着いた雰囲気がなんとなく性に合っていたのだ。
けれど、だからといって幸村君が屋上庭園で花に水をやる習慣を知ってはいなかった。
たまたま知ったのだ。
先輩に伝言を頼まれて、幸村君を探して、屋上庭園に向かって、知ったのだ。
幸村君と一緒に花に水をやる彼女を。
後に忘れられない光景となる、のその姿を。
俺はその日から、気が向いたら屋上庭園に足を伸ばすようになった。
幸村君とと一緒に過ごす屋上庭園の空間は、とても穏やかで好きになった。
好きになる度、そこに行く頻度は増え、とも仲良くなっていった。



俺は、多分のことが好きだった。
静かな水面を思わせる口調とか、濡れた指先で髪を耳にかける仕草とか、ジャッカルのことを語る表情とか、その全てが弦を弾くように、俺の心を震わせた。
何より彼女の、ジャッカルへ思いを寄せる姿を俺は大切にしたいと思った。
俺はジャッカルを思うが好きだったのだ。
葛藤や焦燥、嫉妬はあれど、とジャッカルの両思いを祝福した気持ちは本物だ。
だからこそ、赤也の言葉には不快感しかない。
ジャッカルと樹里が付き合うだなんて、ふざけんな。
とジャッカルの思いを知りもしないで、そんないい加減なことを言う赤也に、俺の知る全てを語り聞かせたかったが、それは我慢した。
それは大人になったことを意味すると同時に、俺の子供らしさの表層だろう。
俺の屋上庭園での思い出や、そこで知ったこと、大切にしてきたものを、いとも簡単に他の誰かと共有などしたくなかったのだ。
ただの独占欲だ。

さんは、いいなぁ」

だから樹里の言葉にも、正直イラッとした。
樹里は大切な仲間だし、中学の青春を共に過ごした仲だ。
けれど俺は、とジャッカルが大切なのだ。
樹里の片思いよりも、とジャッカルの倦怠期の方に俺は胸を痛めている。
俺はポケットのケータイが震え、そこに表示された、メール送信者の名前に、脳裏で黒髪が靡いた。
メールはからだった。



トイレと言い残し焼肉の席を立った俺は、歩きながらケータイを開く。
相変わらずのメールは敬語が使われている。

[ 土曜日は大丈夫ですか? ]

その一文に、ああまたかと思った。

[ 了解、11時にな ]

時々、彼女の恋愛相談のようなものに乗ることがある。
それは中学時代の彼女の片思い時期の名残だ。
俺はジャッカルとの間を飛び回って、2人を繋げる。
そうやって、大切な親友と大切な女性を、俺は大切にしてきたのだ。
だから俺は喜んで彼女の不安を聞く役を引き受けよう。
それが俺にしかできないことならば、尚更だ。



結局、焼肉はあの後いつもの騒がしい雰囲気に戻り、カラオケに行くことになった。
毎週毎週がこんな感じというわけではない。
夕飯は食べて帰ることが多いが、大体がファストフードだし、次の日の授業もあるので夜10時には解散する。
けれどたまに、今日みたいに終電ぎりぎりまで遊ぶ日がある。
皆、何かを誤魔化そうとするみたいに、夜の空気に酔って騒いで、笑っている。
中学から何も変わらない笑顔に、どんなに歳を重ねても心はそんなに成長していないのだと感じた。
俺のジャッカルとを思う心もまた、中学の頃から変わらないのだから。



が俺にジャッカルの思いを打ち明けたのは、中一の夏休み前だった。
丁度今の頃だ。
夏の日差しが厳しく、汗でシャツが張り付いて気持ち悪いというのに、も幸村君も花に水をやるのを欠かしてはいなかった。
寧ろホースから出る水で得る涼しさの虜になっていたとも言える。

って好きな奴いるの?』

その言葉は自然と、軽やかに俺の舌から転がり落ちた。
蝉時雨、積乱雲、色鮮やかな花々、ホースから出る水が虹を作った。

『いるよ』

彼女の横顔は逆光でよく見えなかった。
俺がしゃがんでいて、彼女を見上げる姿勢だったことも、彼女の顔がよく見えない一因だった。

『誰?』

恐らくはデリケートで秘密にするべき話をしている俺との傍で、幸村君は穏やかな笑みを浮かべたまま、花に水をやっていた。

『ジャッカル桑原君』

彼女が告げた名前に、目の前の光景が一気に遠ざかるのを感じた。
体の表面がジリジリと夏の日差しに焦がされていくのに反して、その内面は冷ややかになる。
ああそうか、と思った。
そして応援しようと思った。
俺の好きな彼女と空と水と花の光景に、手を伸ばしてはいけないことを、俺は理解したのだ。
を、どこか遠い存在にして、触れてはいけないのだと自分で自分を納得させた。
その光景に、に触れていいのは、ジャッカルなのだ。
俺ではない。



カラオケを終え、もっと遊んでいたいという物足りなさを感じながらもそれぞれがそれぞれの帰路に着く。
俺が電車を降りたのは昨日の夜とほとんど同じ時間で、昨日の夜ジャッカルと一緒に歩いた道を一人で歩く。
昼間の暑さはもうなく、深夜の夏の空気は足を軽くする。
このまま空を飛んで、の元に行き、苦悩を聞いてあげたいと思った。
そしてそれを拭い取って、またジャッカルと幸せな空間を築いてほしい。
俺はそれを遠くから見て笑うから。

「どうか、幸せに」

夏の星座に告げた願いに、胸の奥がキュッとした。


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