夏の色したシャスターデイジーにグッバイ




女友達5人とのカラオケの際、丸井君に送ったメールへの返信を、マンションのエレベーターの中で確認する。
彼女達にジャッカルとのことを話していて、丸井君に相談したいと思ったのだ。
それは自然なことだった。
私は丸井君に相談せずにはいられないのだ。

[ 了解、11時にな ]

丸井君からのメールはそれだけだった。
私の用事が何なのかわかっているのだ。
いつものことだから。



家に帰ると、玄関に大きめな靴が丁寧に揃って端に寄せられていた。
ジャッカルが来ているんだとわかる。
山川さんに会った足で、私の部屋に来ているのだ。
それがなんだという話なのはわかっている。
ジャッカルは浮気したわけではないし、大学で何人の女の人に会っただろうか。
それでも私は、山川さんが絡むだけで何か特別なことを思ってしまう。
山川さんだけは、駄目だ。

「おかえり、

玄関までわざわざ来てくれたのはジャッカルだった。

「お母さんとお父さんは?」
「飲み会行くって、2人とも」
「あの人達は本当に・・・」

溜息を吐くとジャッカルは苦笑する。
これはよくある光景だ。
温かくて優しくて愛しい日常だ。
そう、思い込もうとしている自分がいた。

「飯は食ってきたんだろ?風呂沸いてるから入ってこいよ。俺はもう家で入ったから」

私が脱いだ靴を、隣からジャッカルはさっと揃えた。
こういう行為に嫌味を感じないところがジャッカルの美徳だろう。
恩着せがましくないというか。

「そっか、わかった。ありがとう、ジャッカル」
「いいって」

苦笑にも似た笑顔はとても優しく、私がそんな優しくされていいのだろうかと思った。
私はジャッカルに何もしてあげられないし、ジャッカルの大切なテニスもわかってあげられない。
私はジャッカルにとって必要な存在ではないように思える。

「じゃあお風呂入る」

私はジャッカルの顔が見れないまま、脱衣所に入った。
ああ、というジャッカルの声が、渇いた心を引っかいた。



当たり前のように、首元にはジャッカルから貰ったネックレスが輝いている。
そのネックレスが、じわじわとゆっくり、私の首を絞めてくるようだ。
少しだけ、苦しい。



お風呂上がり、パジャマを着て髪の毛をタオルで拭きながらリビングに入ると、ジャッカルはソファに腰掛け、文庫本を読んでいた。
傍では扇風機が風を送っている。

「ドライヤーでちゃんと乾かせよ、

ジャッカルが私を一瞥するなり発した言葉はそれだ。

「はーい」

私は回れ右をして、再び洗面所に立つ。
洗面所にはネックレスが置かれていて、私はそれにそっと触れる。
ひんやりとした金属の感触が、指先を痺れさせる。
じん、とする。
指先をネックレスから離し、ドライヤーを取り出す。
温風が髪の間を抜けていった。
手で髪の毛をかきあげ、地肌を乾かす。
その際、指先にも温風が吹きかけられたが、ネックレスの感触は残ったままだった。



ちゃんと髪を乾かして、リビングのソファ、ジャッカルの隣に腰掛ける。
テーブルには麦茶の入ったコップが2つ、置かれていた。
透明なガラスで、縁にラインが入っている。
ラインは色違いで、私とジャッカルのお揃いコップだ。
氷がカランと音を立てた。
冷たい麦茶を飲みながらそっとジャッカルの読んでいる本を覗くと、どうやらマーケティングの学術書のようで、私だったら好んで読まないものであることがすぐにわかった。

「何時に来たの?」
「9時過ぎ。夕飯とシャワー、家で済ませてこっち来たら、おばさんとおじさんが丁度飲み会に行くところだったらしくてさ」
「留守を任された、と」
「まぁな」

ジャッカルの両親と私の付き合いが長いように、私の両親とジャッカルの付き合いも当然長くなる。
しかし付き合い方は全く異なっていた。
私はおばさんたちに可愛がられているとしたら、ジャッカルはお母さんたちに信頼されているのだ。

「適当な両親でごめんね」
「そうか?俺は好きだぞ。受け入れてもらってるってわかるからな」

見上げた先のジャッカルの目元は柔らかく、そういうところが好きなのだと思った。

「そういえば、」

今日テニス部の皆で夕飯食べてこなかったんだね、と言おうとして止めた。
そこには少なからずも山川さんの話題が含まれているからだ。
言葉を途切れさせた私に、「ん?」とジャッカルは首を傾げた。

「今日は、どうしたの?」
「ああ、そうだったな」

パタンとジャッカルの手元にある文庫本が閉じられた。

「日曜の話がしたくてよ」

胸の奥がふわふわする。
私はジャッカルの彼女で、ジャッカルとデートできるのは山川さんではなくて私なんだと安心した。
最近、それを忘れていることが多い。
こうした時にふと思い出しては、不安で揺れる心を落ち着かせてばかりいる。
つまりそれは、山川さんへのコンプレックスが強いということだ。

「ジャッカルは、植物園で良かった?」
「いいって。植物園とかずっと行ってなかったし」
「うん、植物園、久しぶりだよね」
を待ってる間に調べたんだけど、薔薇園が新しくなったんだと」
「へぇ、楽しみだなぁ」

植物が私は昔から好きだった。
そして中学時代、幸村君ととても気が合ったわけだが、それはまた別の話だ。
とにかくそうしたこともあり、私は立海大学に進まず、外部の大学の農学部に行くことにしたのだ。
すると、同じ大学に山川さんがいたのだが。
ジャッカルがそれを告げた時は、足下が崩れ落ちていくような気持ちになったのを覚えている。
またあの子を見なければならないということは、あまりに耐えがたいことだった。
運良く、彼女とは違う学部で、大学の校舎内で見かけることはたまにあれど、会ったことはなかった。
私が山川さんを避けているし、恐らく山川さんも私を避けているおかげだろう。

「いつもどおり、朝、適当な時間に迎えにくればいいか?」
「うん、それでいい」

どこかで待ち合わせはもうしなくなった。
これは1番効率の良い会い方だったし、ただの惰性とも言える。
でもこれが私達のスタイルとして確立してることに変わりはなく、これが私達の普通だ。
ジャッカルと山川さんが会う時の方が余程恋人同士らしいのだろうと思う。
山川さんが大きく腕を振って走ってジャッカルの元に駆けつける様子なんてすぐに浮かぶ。
ああ、本当に、嫌だ。

「明日早いんだろ?もう2時過ぎてるし、寝なくていいのか?」
「え、あ、うん。じゃあ寝る」

もうそんな時間なのかと意識した途端、睡魔がのっそりと頭の奥からやってきた。

「ジャッカルはまだ起きてるの?」

度々口にしていた麦茶は丁度飲み終わり、ジャッカルも最後に一口飲んで、お揃いのコップはテーブルに丸い水滴の後を残して空になって並んだ。

「あー、今日はちょっと帰るかな。俺、明日の授業昼からだし」
「お母さんたち、ジャッカルが昼までいたら普通に喜ぶよ?」
「それはありがたいけど、今夜は泊まるつもりで来たわけじゃないからな」
「そっか」
「戸締まりちゃんとやれよ?」
「うん」

ジャッカルがコップを手に取ったので、私がやるよと言ってコップを受け取る。
その際、手と手が触れ合った。
ドキッなどとはならない。
私の手はジャッカルの体温や感触を自然と受け入れることができるくらい、それに慣れている。
ジャッカルと触れ合うことは、もう特別なことではないのだ。

「また、日曜にな」

流し台にコップを置くと、台所に顔を出してジャッカルは笑みを浮かべた。

「うん、楽しみにしてる」
「ああ」

ひらりと手を振り、ジャッカルは覗かしていた顔を引っ込め、玄関へと足を進めた。
程なくして扉が開き、閉じる音が聞こえた。
コップを洗う手に、冷たい水が流れ落ちる。
今の私は、ちゃんと彼女らしいだろうか。
じんじんする指先に、そんなことを思った。
水を止め、お揃いのコップを乾燥棚に置いて、タオルで手を拭く。
それから玄関の鍵を閉めて、扇風機もOFFにして、自分の部屋のベッドにダイブする。
余計なことを考えないようにしよう。
枕に顔を埋めて、ギュッと目を瞑った。




バチッといった効果音が聞こえたかのようだった。
金曜日の昼休み、階段の踊り場で、彼女の目と私の目が合ったのだ。
そのまま視線をずらして擦れ違ってしまえば良かったのだろうけど、私と彼女ー山川樹里の足は見事に止まってしまっている。
先に目を逸らしたのは私だった。
そして先に足を踏み出したのも私。

さん」

山川さんの横をすり抜けた瞬間だった。
彼女の凛とした綺麗な声が、私の鼓膜を震わせたのは。

「私、ジャッカルのことまだ好きなの」

振り返った先の彼女は、華やかな顔を強気に染めている。
その瞳に、胸の奥がゆっくりと冷ややかになるのを感じた。

「諦めようと思ったけど、諦められない。だから決めた。さんには絶対負けないから」

そのとき、山川さんへのコンプレックスや負い目といったものが、全てどこかにひょっこり隠れた。
代わりにむくむくと現れ膨らんだのは、怒りに似た冷たい感情だ。
ふざけるな、というのと馬鹿じゃないのか、というものが同時に存在していた。
初めて相対したことで、私の感情はいとも簡単に逆転したのだ。

「ねえ、山川さん」

唇が弧を描く。
ずっとずっと勝てない相手で、目を逸らしていた彼女を、初めて見下した。

「テニス部でずっと一緒だったあなたじゃなくて、ジャッカルは私を選んだんだよ?」

私は山川さんが怖かった。
彼女の魅力を私は十二分に理解しているし、彼女に自分が劣っていることも当然理解している。
だからずっと、ジャッカルの目に自分と彼女が並んで映るのが嫌で嫌で、山川さんだけでなくジャッカルからも逃げていた。
でもそれは、身を引くということではない。
ジャッカルは山川さんといる方がいいのかもしれないけれど、だからといって身を引く程健気な可愛い女の子ではないのだ。
譲る気なんてない。

「しかも、もう6年付き合ってる。だから諦めなよ、山川さん」

自分の言葉を、私は噛みしめる。
確かに山川さんは素敵で、私はダメな女だけど、それでもジャッカルが選んだのは私なのだ。
もう6年も、選び続けてくれている。
その事実が何よりも強い味方だ。

「ジャッカルは、あげない」

彼女の水晶みたいな瞳を真っ直ぐ射抜くように、私は見つめる。
山川さんが何を思って何を感じているのかはわからないが、どうやら二の句はつげられないようだ。
私は今度こそ前を向いて、足を踏み出した。
階段を上る私の足音はよく響く。
この音が彼女にとって絶望になればいい。



「遂にライバル宣言か。山川は強気なところあるから不思議じゃないけど、のは意外だな」

砂糖をたっぷり入れたコーヒーを一口飲み、面白そうに丸井君はそう言った。
約束通り、土曜日の午前11時、私達はいつも行くカフェで落ち合い、軽食を取りながら昨日の出来事を話したのだ。

「そう?」
「勝手にすれば?とか言いそう」
「ああ、確かに」

喧嘩を買うと言っていいのかわからないが、そういうことをするのは確かに私らしくなかった。
けど、絶対に譲れなかったのだ。

「つまり、は本当にジャッカルのことがすんげー好きってことだよな」
「まあね」

照れたりとかしないよなって、と丸井君は苦笑した。
そこに店員さんが、夏限定フルーツデラックスパフェを運んできた。
勿論丸井君が頼んだものだ。

「私は、山川さんにひどく劣る人間で、ジャッカルにふさわしくない人間だけど、ジャッカルを好きっていう気持ちだけは負けたくないからね。まあ、照れたりとかしてられないっていうか、この好意は丸井君に隠したところで意味がないっていうか」
「ああ、知ってるよ」

丸井君が手に取った銀色のスプーンは、サクッとアイスを抉る。

がどれくらいジャッカルを好きなのか、俺はずっと知ってる」

丸井君はニッと笑った。
私はそれにほっとする。

「それに、は山川に劣ってなんかないぜ。寧ろ勝ってる。ジャッカルともお似合いだ。俺が保証してやる」

丸井君は本当に信頼できる人だと思う。
歳の離れた弟が2人いるということもあるのか、面倒見がいいし、聞き上手だし、何よりジャッカルの親友なのだ。
丸井君という相談相手がいる私は、きっと運がいい。

はもっと自信もっていいって」

思えば中三のとき、山川さんへのコンプレックスを何とか降り越えられたのは山川さんの引っ越しもあるが、丸井君の言葉が何より大きかった。

「そんなことないと思うけど、でも、・・・ありがとう、丸井君」

丸井君はまた、頼りがいのあるお兄さんのような笑みを浮かべた。
そしてまたパクパクとカフェを食べ進める。

「もう6年も経つんだな。から、ジャッカルと付き合うことになったってメールが来てから」

ジャッカルと付き合うことになったと最初に知らせたのは丸井君だった。
彼には、ジャッカルに片思いしている間、随分お世話になっていたし、誰より応援してれくたから、真っ先に知らせたかったのだ。

「もうお前らさ、熟年夫婦みたいなもんじゃん。お互いのこと充分わかりあってるし。でも、まだ全然通じ合ってないところあるからさ、付き合いの長さに甘えてないで、ちゃんと話せばいいと思うぜ。の思ってること、全部」

彼は本当に、ずっとずっと私達を応援してくれてて、見守ってくれている。
私とジャッカルのことを、私とジャッカル以上によく理解している。
私は身を持ってそれを思い知っているので、丸井君のアドバイスはすんなりと飲み込めた。

「そうだね、ちゃんと話すことにする」
「ああ、そうしろよ」

もういい加減、昇華しないと本当に駄目になってしまうのだろう、私とジャッカルは。
私の中で燻っていた思いを、ちゃんと話さないといけないのだ。

「そういや、の頼んだチーズケーキ、来ないな」

確かに時間が掛かり過ぎている気がする。
店員さんを呼び止め、確認してもらったところ、どうやら忘れられていたらしい。
そうしてようやく私のチーズケーキが運ばれた頃には、もう丸井君はパフェを食べ終えており、追加注文をした。

「そうだ、丸井君。借りてたCD、持って来たよ」
「おお、サンキュ。な、良かっただろ?」
「うん、5曲目がすごく良かった」
「そうそう、あの曲、つい鼻歌しちゃうくらいやばいんだよな」
「ああ、わかる」

鞄から取り出したCDを丸井君に渡す。
2人でデザートを食べながら、またいろいろなことを話した。
それぞれの大学の話、テニス部の話、昔の話とか。
そしてそろそろ帰ろうと言い出したのは午後2時を過ぎた頃だった。

「今日はありがとう、丸井君。本当に丸井君がいて良かった。私、ジャッカルとちゃんと話すね」

会計を終え、お店を出るともう私達の帰路は反対方向だ。
丸井君はその赤い髪に負けず劣らずの明るい笑みを浮かべた。

「いいって。俺はジャッカルとには幸せでいてほしいんだよ」

その言葉を、もう何回聞いたことだろう。
私と丸井君はじゃあまたと言って反対の道を進んだ。
その道のりで、丸井君に言いそびれたことがあるのを思い出した。
私は、ジャッカルの部屋に置いてあった化粧水を持ち帰っていたのだ。
私はジャッカルにふさわしくないのだというささやかな主張にもならない主張に、ジャッカルは気付いただろうか。
気付いたなら、どう思ったのだろうか。
そんな相談にもならないことを話していなかった。
ああ、でも、まあいいか。
それも含めて、明日ちゃんとジャッカルと話せばいいのだから。



夕方からはバイトだった。
飲食店でバイトしており、アクセサリーは禁止なので、いつも付けているネックレスは外して自身のロッカーに仕舞う。
あの首を絞めてくるような感覚はもうどこにもなかった。
ただ誇らしさがあった。
ジャッカルが高校1年の時にくれたこのネックレスは私にとって宝物だ。
それを念頭に置くことをすっかり忘れていた。
確かに私はもうジャッカルの体温や優しさや魅力に、その全てに慣れていて、特別を普通に感じていた。
でも、ジャッカルを好きな気持ちは、山川さんに買い言葉で返してしまうぐらい、とても強いものなのだ。
山川さんの鋭く強いあの目が、私の中でいろんなものに埋もれていたその感情を掘り返してくれた。
山川さんには感謝しなければいけないのかもしれない。
そんな皮肉を思いながら、私は更衣室を出る。
明日のデートはどんな服装にしよう。


inserted by FC2 system