のみこんだ嘘が微笑む二十六時




木曜のテニス部の集まりから家に帰って部屋に戻ると、違和感があった。
部屋に入って、1番に目に付くのは、が持ち込んだ不細工な猫の顔の大きなクッションだ。
それはいつもと変わらないのに、何かがおかしかった。
不細工な猫が「気付かないのか?」と言っているようだ。
ぐるりと部屋を見回す。
すると、あるものがなくなっていることに気付いた。
が部屋に置いていた化粧水がないのだ。
は俺の部屋と自分の家にそれぞれひとつずつ化粧水や化粧落としなんかを置いている。
家に置いてあるやつが切れたから持ち帰ったのかもしれない。
その可能性は十分あった。
でも俺にはそのように思えず、ただが俺の部屋からその痕跡を消そうとしていると感じた。
このまま俺はを失うような気がした。
手に掬った砂が指の隙間から抜け落ちていくような感覚だ。
には会わないとと思っていた。
その思いが強くなった。
を失いたくはないのだ。
が最近、何を思っているのかはわからないし、の思いがどこにあるのかもわからない。
何より俺がにふさわしい男のようには思えない。
それでも俺はが好きだから、失わないように、どうにか彼女を繋ぎ止めたいと願うのだ。



の家には、もうとっくの昔に慣れてしまった。
もちろん、のご両親にもだ。
のご両親は、ユーモアに溢れ、無邪気な面を持つ、とても可愛らしい人達だ。
はそんなご両親に少々呆れているみたいだが、好いているのは手に取るようにわかる。
彼女の家族に留守を任されるくらい、受け入れてもらえていることは俺にとって幸福なことだ。

「あら、ジャッカル君」

風呂も夕飯も済ませて、の家のある2階下に降りると、丁度のお母さんと対面した。

「あ、こんばんは」
「こんばんはー。ならまだ帰ってないのよ、ごめんねー」
「いえ。特にこれといった用事があったわけでもないですし」

ただ、会っておきたかった。
おばさんの口調から、はいつ帰るかわからないのだろう。
なら暫くしたら電話でもしてみればいいか、と思ったら、おばさんが「あ、ねぇ、ジャッカル君」と無邪気な笑みを浮かべた。

「私とお父さんね、これから飲み会行くから、のこと家で待ってなさいな」

不用心じゃないですか、というツッコミは見事に宙を切った。



恋人のご両親に信用されるのは喜ばしく幸福なことだろう。
けれどあまり信用されすぎるのも、何とも言い難い。
俺は俺の人柄や気質をよく自覚しているから、この家を荒らして何か盗んだり無駄に何かを覗いたりもしないからいいが、もしもの恋人が俺じゃなかったら、あのご両親はここまで信用したのだろうか。
は呆れているらしいが、俺は心配だ。
はぁ、と溜息を吐いて、が帰ってきた時のためにお風呂を沸かそうと浴室に入る。
ガスを付けて浴室から出ると、洗面台の端に置かれた化粧水が目に入った。
化粧水の蓋に、よくわからないゆるキャラのシールが貼ってある。
それは俺の部屋から消えたものに違いなかった。
そして、その隣にもうひとつ、同じ銘柄の化粧水が置かれていた。
そっちにシールは貼られておらず、元からここに置いてあったものだろう。
中身はどちらも3分の2程入っていた。
別には、家にある化粧水が少なくなったから、俺の部屋から化粧水を持って帰ったわけでもなさそうだ。
ゆっくりと、紐を丁寧に解くように考えを巡らせながら、そこから離れてリビングに向かう。
人様の家のソファに座るのは少し緊張するが、の家でそれは感じることなく、腰掛ける。



倦怠期。
今の俺とを表すのに相応しい言葉だ。
一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど、必要な言葉は少なくなった。
が成長すればするほど、俺はに相応しくないように思えた。
昔はに伝えたい気持ちがたくさんあったのに、今はそうでもない。
昔は、に好きだってたくさん伝えたくて、と一緒にいたいってたくさん伝えたくて。
でも今は、を好きなことは当たり前で、と一緒にいるのも当たり前だ。
常にラブラブでアツアツみたいなカップルだったら言ってたのかもしれないけど、俺ももそういうキャラでも付き合いでもないのだ。
だからこそ、日曜のデートの前に会っておきたい。
まだちゃんとと付き合っているのだと、実感しておきたい。



ガチャリ、という音がした。
が帰ってきたのだ。

「おかえり、

の首元には、俺があげたネックレスが当たり前のようにかけられていた。



と日曜の話を少しして、は俺が泊まっていくと思っていたみたいだが遠慮しての家を出る。
いつも通りだった。
が隣に座って、自然と寄り添って、穏やかに会話する。
それだけの俺達は、いつも通りだけど、どこか重たい気がした。
階段を上る音はマンションに小さく響く。
化粧水といい、纏っている雰囲気といい、が心のどこかで俺から距離を置いているのはわかっている。
大学に進学して暫く経ってから、ずっとそうだし、今日はそれが如実だった。
何かに悩んでいるような、何かに引っ掛かっているような感じだ。
でも俺はそれを問い質そうとは思わなかった。
俺が踏み込んでいい問題ではないのだと、わかるからだ。
わかるのだ、のことなら。
わかったから、いいと思った。
今日のところは、これでいいと。
家に帰ると、もう家の中は真っ暗だった。
なるべく静かに自室に入る。
猫の顔のクッションは相変わらずブサイクだ。



俺はが好きで、を幸せにしたい。
それが芯だ。
そしてが今何かを考えていることはわかってる。
だから、待とう。
が考えている何かが導き出す答えがどんなものかはわからないけど、きっとそれは俺との付き合いに関係するだろう。
その答えが出るのを、待とう。
せめて日曜のデートの時にはそれを告げて、を好きだとまた告白して、焦らずにじっくりと、俺達の関係を続けていこうと言おう。
隣に座って、自然と寄り添って、穏やかに会話して、は答えを出せばいい。
俺も、に釣り合わないとか、そういうものの答えは出すから。
このままでいいわけないけど、このままでいいんだと言うことで、少しだけこの倦怠期を変えられると思うんだ。
俺はが好きだ、が何かを考えているのはわかってる、わかってるから大丈夫だ、俺も考えるところがあるんだ、もちろん俺がを好きなことは変わらない、ずっと一緒にいたい、だから今まで通りでいいんだと。
ただ、俺がわかってることをわかっててほしいと伝えよう。
久しぶりに、いろんなことをちゃんと言葉にしよう。
多分俺達にはそれが足りなかっただけなんだ。
それさえできれば、もう俺達は大丈夫だと、なぜか確信して、俺は眠りについた。
その日見た夢の中で、9歳のに出会った。
あれから10年は経ったのに、まだお前のことが好きなんだ。
そう言ったら、9歳のは、俺が好きになった笑みを浮かべて「私もよ」と言ってくれた。




金曜は朝から大学に行き、夕方から深夜にかけてバイトだった。
俺はとは違う飲食店でバイトをしている。
ちなみにはフロアを担当しているが、俺は厨房だ。
この見た目のため、フロアは余程の人手不足でないと呼ばれないのだが、俺にとっては好都合だ。
親父のラーメン屋を継ぐか継がないかは今のところ何とも言い難い。
しかし、厨房で料理の経験を積んでおくのは、もしも継ぐことにした時、役に立つだろう。
継がないにしても、料理というスキルは身に付けておくに越したことはない。
まぁ、ブン太の腕には及ばないだろうが。



そのブン太から土曜の夕方、メールがきた。

[ 明日デートするんだろぃ?さっきと話したけどよ、お前らは大丈夫だよ。ちゃんと話せば倦怠期なんて平気平気 ]

の相談相手がブン太だというのは中学時代から知っているし、ブン太はよくこうして俺にのプライバシーを侵さない範囲でいろいろ知らせてくれている。
6年も俺とが付き合えているのは、俺達の相性もあるだろうが、ブン太の働きが大きいのは事実だ。
そのブン太が、大丈夫だと言ってくれたのだから、本当に大丈夫なのだろう。
本当にいい親友を持った。

[ ああ、ありがとな。俺も明日はいろいろちゃんと話すつもりだ ]

そう返信したら、またすぐにメールが来た。

[ ばーか ]

それだけのしかメールには書かれていなかったが、俺はつい笑ってしまった。



そして、日曜の朝を迎えた。
天気は晴れ。
熱いのが苦手なは文句を言うかもしれない。
顔を洗って、頭を剃って、服を着替えて、家を出る。
階段を下りると、が丁度出て来たところだった。

「おはよう、ジャッカル」
「おう、おはよ、

シンプルなワンピースに、少しだけヒールのあるサンダル、帽子もしっかり被っているの首元にはいつものネックレス。
は綺麗に微笑んだ。

「行こう」

そう言ったは、くるりと踵を返して、エレベーターに向かう。
俺はその後を追って、隣を歩いた。
エレベーターの中でを改めて見ると、やっぱり可愛いなと思った。

「可愛いな」

最近、そんなことも言ってなかったけど、つい言葉にしてしまった。
は少し驚いたように顔を上げて、頬をほんのり赤く染める。
そんな顔も可愛くて微笑ましくて、頬の筋肉が緩んだ。

「あ、ありがとう…」

照れながらそう言うは、エレベーターが1階に着くと焦ったように外に出た。
夏の強い日差しと蝉の鳴き声が激しく降り注ぐ中、のワンピースがひらひらと踊った。


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